第46話 朱の花園

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 荒涼とする地面をそよ風が撫でる。揺らされて草花が波打つ。

 野に咲き乱れる朱の花々、一面の朱色の真ん中に銀色の梨を実らせた樹林が見えた。茜は息を呑んだ。静まる戦場にハルの姿は無かった。

「茜殿」

 破笠に名を呼ばれ、うん、と頷くが後が続かなかった。何を言えば良いのか、何を考えれば良いのか、茜は眼に映す幻想を確たるものとして受け取ることが出来なかった。胸に去来する何かを判別する事を厭う。このまま滔々と時が流れていってしまえば良いとさえ思う。答えなど必要とせず我が身がここで朽ち果てるまで。

 胸を詰まらせるほどに切ない光景。朱の花園はただただ美しかった。

 その満開の花々の真ん中に、黒髪の少女が一人佇んでいた。

 朱の艶やかさに負けぬ程の錦を纏った少女は右手にハルの神器を携え、左手に蛙を乗せていた。碧眼を伏して花を見つめる少女の姿を羨望の眼差しで見つめていることが不思議だった。

 黒髪の少女は蒼樹ハルと出会い、共に戦い、その結末に何を観たのか。

「良かったね、ハルちゃん」

 意図せず言葉が口を突きハッとする。鬼面の下で涙が流れた。

 只一人の生存者をみて、やり遂げたハルを想う。よかった、彼は彼女を救うことが出来たのだと、ハルの笑顔を思い浮かべた。

「また、雨は降らなかった」

 冨夜が話した。静かで安らかな声だった。

「冨夜様、これで満足、そういうことですか」

 破笠は問いかけた。苦々しさを孕んだ声だった。朧気にその顔を見ると、そこには怒りが見えた。厳しく眉根を寄せ歯がみする赤鬼は、遣る瀬なさを見せながら憤慨していた。

「酒呑の娘よ、これが此度の顛末です。帰って父上に報告するがよろしかろう」

 是非を返す気すら失せていた。出来ればこの花園で帰らぬ人とともに眠りたい。自分の内側にはもう何も残されていない。

 草のさざめきが茜を誘う。ここは妖気を喰らう地獄と聞いていた。この仮面を外せば死ねるのだろうか。

「茜殿! 正気ですか! 早く鬼面をお着け下さい」

 強く自分の名を呼ぶ声。肩が揺れ、金色の鬼面が手から零れる。肩を掴んだ破笠の手が身体を後ろへと引き戻す。

「破笠! 逝かせて、私はもう」

 羽交い締めにする腕を振りほどこうとするも身動きが取れなかった。茜は懇願した。お願い、お願いと何度も。

「あなたを死なせるわけにはいきませぬ」

「なんで、なんでよ! いいじゃない。もう雨はいないんでしょ、ハルちゃんはもう……役目なんて、もうどうでも良いじゃない!」

「それでも、それでもです」

 無理に言い含める父親のように破笠は声を張り上げた。根拠なき叱咤。困惑の顔がそこにはあった。破笠も存在意義を見つけられないのだ。

「ハルちゃん……。ハルちゃん!」

 遠くに行ってしまった彼に届けとばかりに名を呼んだ。

 地面に伏し、茜は目に付く花々を手当たり次第に掻き散らした。

 そうして、ひとしきり泣き崩れたあとに、戻ってきて、と切に願いを込めて呟く。

 悲嘆に暮れた茜に破笠が寄り添い慰撫する。さあ、と金色の鬼面を差し出されたその時だった。俄に朱の花が騒ぎ出した。

 静まる場に一つ、突風が舞い込む。朱の花びらを走る風が攫っていった。茜の髪が揺れる。去りゆく花弁を追うと……、花園に、黙して佇む少女が、何かに気付いたようにハッとして顔を上げた。その眼差しがゆっくりと流れてこちらを捉える。茜は身を強ばらせた。――なに? なんで微笑んでいるの?

 茜は少女の口元に笑みを見て視線をあげた。顔を見るが二人の視線は合わさらなかった。

 どこを、何を見ているのか、更に彼女の視線を追うと今度は梨の木の方へと誘われた。

 ――あれは、……仙狸!

「尚仁様!」

 傍らで破笠も驚きの声を上げた。梨の木の下に銀の猫を伴った当代頭首の姿があった。茜は矢も盾もたまらず駆け出した。何故、何故と沸き立つ疑問を振り払うようにして。草を掻き分け、足を取られながら走る。最後は転ぶように辿り着いた。

「あなたなんでこんな処に、仙狸、あなたも」

 二人を見上げるようにして尋ねる。尚仁は人の良さそうな顔つきで苦笑を見せ、さあ、と両手を持ち上げた。

「お転婆娘のその出で立ち、なるほど、酒呑の血筋めのその策士ぶり、相変わらず抜け目のないことだ。それに破笠、お主まで出向いておったとはな」

「……仙狸?」

 疑問が深まる。姿も声もまるで変わらないのに気配がまるで違う。

「久しぶりであるの、黄櫨」

「……黄櫨? どういうこと? あれは、あの猫は」

「茜殿、姿形は銀の猫、されど中身は別人でございます」

 破笠が、小癪な奴だ不敵に笑う。

「叔母上、ご息災のご様子、何よりでござります。しかし、随分とお変わりになられた」

 冨夜の涼しげな眼差しが黄櫨を見つめた。

「成し遂げた、そういう顔をしておられますね、冨夜殿」

「そう見えますか、それは上々でございます」

 いって冨夜は、黒鬼の太刀を黄櫨に向かって放り投げた。

「全ては終わったと、そうお思いですか?」

「如何も、揚羽殿は既に天に召された。これで無益な争いは終わり」

「まだ、乙女が健在をしております。なれば、そのお考えはちと早計では?」

 黄櫨の話を聞くなり、冨夜は腹に手を添え俯いた。歪む口元からクツクツと音が漏れ出す。

「叔母上、あなたが何を企んでいたのかは先刻承知しております。しかし、よもや今生の雨音女となり、私に刃を向けてくるとは。それは余りに滑稽、この冨夜、下品な笑み声をあげてしまうところでした」

「いけませぬか? 私も雨の女。焦がれる気持ちは些かも変わりなく」

「ククク、アハハ、アハハハ! 叔母上、蒼樹ハルはもうあの世。雨が死んで、なんの雨音女か、これはますます可笑しきことだ」

「ほう、あの者ことを雨の陰陽師と呼びなさるか」

 侮辱の色を露わにしながら銀の猫が見下す。なにを、といって冨夜は細めていた目を開き眉間を寄せた。眼に灯る憎悪の光、茜は冨夜の感情が動く様を初めて見た。

「叔母上、そもそも雨など降らぬのですよ」

 冨夜は物静かな口調に戻りゆるりと首を振った。

「白竜の娘を騙し、娘の宝珠を手に入れようと目論んだ。第二の雲華を作り出そうとして成し得なかったあなたの言葉は重い。察しますよ」

「これはこれは、異なことを。あれは善行。父を救いたいと願った娘の思いに寄り添うただけ」

「善行ですか……、そう言いますか。しかし、あなたの、その行いの全ては秋霖様の上辺をなぞらえただけのもの。笑止、それでは蒼樹ハルの足下に遠く及ばぬ」

「死んだ者のことです。口惜しいこととは存じますが、それも今さら」

「本当に死んだとお思いか」

「猿が猿まねをする。あのような三文芝居、見抜けぬ方がおかしい」

「百足と黒の娘の因果を背負いながら修羅場に立ち襲撃者に慈悲を与える。あまつさえ戦場に一滴の血も流させない。人の身で異界の王の御衣を受けるあの者は体現者であろう。そのような者を、殺せる道理はもはやこの世にはありませぬ」

「負け惜しみはお止しなさい、叔母上。死んだのは事実」

「然りとて、猿太郎は申しました。雨様は猿翁の宮城におわすと」

「おりませぬ」

「あの者は戻ってきますよ。全ての者に天誅を下すために」

「あり得ぬ」

「不安なればこそ、破笠と酒呑の娘を証人として引き連れここに参ったのでは?」

「ありませぬ」

 茜は二人の様子を母と子の様に見ていた。理を解く黄櫨の語調は穏やかで、そこには子を思い慈しむような心情さえ感じさせる。対して冨夜は、表向きは平然を装っているが、その言葉の端々に聞き分けのない稚児の様子を窺わせた。 

 銀の猫が、やれやれと首を振った。空しさが込められたような溜め息をひとつ吐いた。

「尚仁殿、あれを」

 黄櫨が当代頭首に促す。尚仁は軽く眉を上げ、はいはいと返事を二つ重ねた。

 袂に手を差し入れ、弄り探して一本の巻物をとりだす。破笠が隣で、あれはと驚きの声を出すと冨夜の顔色が変わった。

「それはお前が、喉から手が出る程に欲しがっていたもの。八百年前、田原藤十郎を誑かし、鏡と宝珠を我が物にしようと画策した。それもこれも、この筆墨を手に入れるため」 

 黄櫨が憂いながら話す。苦々しく目を細めた冨夜。あれが一体どうして、と破笠は口ごもる。

「破笠、あれは?」

 やり取りを見て何か重要なものだとは思ったが、だからといって何らかの力が窺えるかと言えばそうでは無い。茜には古びた巻物に見えていた。

 天神地祇免状、破笠の唸るような、押しつぶしたような声は震えていた。

 どこかで聞いたことがあるような気がする。茜は、天神地祇免状と復唱しながら首を傾げた。

「あれこそが、雨の三宝の一つにして、雨を雨たらしめるもの。手にした者は天の力を得られると聞いております」

「天の力? 神の力を授かると?」

「あ、いや、正確には竜の力でござりまする」

「竜……」

「しかし、まさかあれを黄櫨が持っておったとは。私はてっきり翠雨宮の最奥にある宮に封じられているものと承知を致しておりましたが」

「本物なの?」

「間違いなく」

 揺るぎのない声だった。茜は破笠の顔と静まる場を交互に眺めた。雨を雨たらしめる象徴というが、尚仁の、巻物の扱いは真否を疑わせるほどに粗放であった。

「横山尚仁、それをこちらに」

 冨夜の出した手は僅かに震えていた。それが驚きなのか、歓喜なのかは判別できなかった。

「構いませんよ」

 淡々と物を右から左へ受け渡すように簡単に。尚仁はひょいと持ち上げた巻物をブラブラさせ冨夜に歩み寄った。

「はい、どうぞ」軽やかな口調、目元は涼やかであった。

 冨夜は、よもやと漏らして懐疑に眉根を寄せた。だが次に、巻物を手にして享楽の笑みを浮かべた。悦に入る。いやらしく顔がほころんだ。だがそこに、

「我が情 焼くも吾れなり 愛しきやし  君に恋ふるも 我がこころから」

 尚仁が吟じた。締まりの無い笑みを浮かべながら。

「何故に、戯れるのか」

「冨夜殿、いや瀧落どの。あなたも一族の者ならば、恋の和歌になぞらえた悲哀の心をご存じでしょう。それに、その天神地祇免状を手にすればもうお分かりでしょう。そんなものには何の力も無い、授かる意味も無い」

「……まさか偽物、いや、これは確かに」

「瀧落よ、まさに『 君に恋ふるも わがこころから』ですよ。その渇望は幻、全て、己の心の仕業なのですよ」

 諭す尚仁の真顔が、一族の悲しき業を表していた。

「……おのれ、父上も、叔母上も、そして我が一族までも。嫡子の私を愚弄しよって。許さぬ、許さぬぞ。うつつを抜かし、外に子をもうける愚行、翠雨宮のみならず後嗣の座まで取り上げて、……さらに死してのち千数百年が過ぎても、私を認めぬとは」

 肩を振るわせて拳を握る。噛んだ唇から血を流し、眼を血走らせる。

 冨夜には今にも爆発しそうな怒りが見えた。

「そんなにも、雨の陰陽師を憎んで……」

「茜殿、これもまたあの方の愛なのです」

「……愛」

「それよりも、茜殿」

「ああ、そうですね。どうやら局面は変わったようです。あの黒髪の娘が微笑んいた意味を、なんとなく理解しています」

「如何にも。黄櫨はここを決戦の場と見込んでいるのでしょう。あの娘も、ハル様に何事か託されていると考えて宜しいかと」

「まだ、終わっていないんだね」

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