第27話 朱髪の少女
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風にそよぐ緑林の中に真っ直ぐ伸びる石畳の道。
鬼怒川神社の外宮を目指し、鬼面を付けた
ここを訪れるのは何年ぶりのことだろうか。
緑の中に聞こえてくるのは幼い頃より慣れ親しんだ父の旋律。そのうら悲しい琵琶の音色を耳にして足を止める。木漏れ日の中にひっそりと佇む東屋を臨む。苔むすその森は清気に満ちていた。
――もう、遠い日の記憶のように思える。
心を穏やかに、茜は一つ安堵の息をついた。
目を閉じ思い出を数えると、回想が胸をキュッと締め付ける。
あの日、降りしきる雨の中で自分と同じ年の子供が家族を失った。
偶然か否か、両親とともに現場に居合わせた茜は、後に雨の陰陽師と呼ばれることになる男の子、蒼樹ハルとの邂逅を得るのだが、運命というものは同時に気まぐれな一面を見せた。期せずして鬼怒川家長子の初陣となるこの巡り合わせは、奇しくも茜の恋の始まりとなったのだ。
当時のことについて今でも強く印象に残っているのは、負傷しながらも必死になって猛火の中に進もうとする男の子の痛々しい姿と、水気の中で燃え続ける炎の不思議だった。
幼い茜の初陣。
当初は戦場に見る悲惨な光景と悲痛な叫びに気後れをしてしまった。それでも、酒呑童子の血脈に連なる鬼怒川家にあって神童と謳われた茜は遺憾なく実力を発揮する。ひとたび攻勢に転じれば臆することなく身体は軽々と動いた。
このとき父親は幼い娘の初陣を慮ってか、敵を倒すよりも子供を守れと指示をする。茜も分をわきまえて父の言葉に従った。
その戦いの最中に早まる鼓動。――なんだ、この子は、何者?
化け物よりも人間の、それも自分と同じ年頃の子供に畏れを抱く。
無自覚に妖力を発揮し土蜘蛛に対抗する男児に自我は見えず、荒ぶる姿はまさに鬼神。そんな子供の暴走を必死に抑えようとするが、我を失う子供は言うことを聞いてくれなかった。
信じられない光景を目の当たりにしていた。敵は見た目ほど強くはない。むしろ厄介だったのは守るべき子供の方だった。茜は驚嘆しながら困惑したのだが、この時に抱いた感情はそれだけではなかった。
茜は魅せられていた。
あの時のあれは……、気持ちの高揚は不慣れな実戦によるものと理解している。吊り橋効果という言葉を耳にしたのは、それから随分と後のことであり、芽生えた感情が彼の大きな不幸の中で生まれたものであることには忌避感を抱かないでもない。しかし、否定することは出来ない。茜は、あのとき確かに幼心に胸をときめかせていた。そうして今は確信している。この、蒼樹ハルを想う気持ちに偽りはないと。
「……ハルちゃん」
行方不明となった雨の陰陽師。
蒼樹ハルを助けるために異界へ行く。その為の手段と許諾を得る。
鬼怒川家は、先代雨の陰陽師との縁により雨一族の趨勢を見守ってきた。その血に連なる茜にとって蒼樹ハルの捜索は使命であるといっていい。
目当ての場所へ一歩を踏み出すと赤袴の裾が苔を潤す
――これは私心ではない。
その事を、どこか言い訳のように思いながら、茜は父の居る東屋を見据えた。
小さな門をくぐり琵琶の音のする庭先へと向かう。
静かに佇む父の姿をみて頬を強ばらせる。普段は温厚な父親の顔を見せるが相手は酒呑の血族を纏める長であり化け物のような人物だ。嘘や誤魔化しなど通用しない。
茜は息を呑んで父の前に進み、その場で両膝を着き叩頭した。
「頭首、報告に参りました」
恭しく礼節を保ちながら話すと琵琶の音が止む。
「ここは頭首の私邸ではあるが、いわばお前の家でもある。大仰に構えることはないんだよ」
いつも通りの涼やかな声が返った。
「しかしながら、事は重大かつ危急である故に――」
「お転婆娘がいつになく神妙じゃないか、ハルちゃんに何かあったのかい?」
「ハルちゃ、いや、蒼樹ハルが突如姿を消しました。左方の太刀、騒速の言によりますれば、どうやら異界なる場所に連れ去られた模様で……」
「異界ねぇ。それはまたとんでもないな」
「現状、蒼樹ハルは存命であると聞きましたが、とても不安定な状態らしく、その、一刻も早く救出をせねばならぬと考えますが」
「救出かぁ。向かう先が異界とくれば、それは容易なことではないな」
「そのことですが、異界とは如何なる場所なのでしょうか? 騒速が異界を口に出したとき、狛神も真神も揃って押し黙ってしまった」
「それはまぁ、そうなるだろうね。助けたくとも、彼らには手出しが出来ないのだから」
「何故でございましょう。彼らも神、ならば、そこがどのような場所であろうとも関係ないのではありませんか。ましてや主が危険に晒されているのです。戸惑うなどありえない」
「そういう場所なのだよ、異界とは」
諭すように言うと、父親は傍らに琵琶を置き、懐紙を一枚取り出して宙に放った。
「茜、陰陽五行についてはもう説明するまでもないね」
父の穏やかな目が茜を見た。
「はい。木、火、土、金、水の気が陰陽をもって循環するということです」
軽く頷いて答える。
「こちらでは、五行は五角を成し、それぞれが五芒を描くように循環して成立しているのだけれど、異界では少し様相が変わるんだ」
父親が印を組んだ指先を走らせると、宙に大きく広がった紙に線や文字が浮かび上がった。正八角形の枠の中に幾何学的に走る線。中央に黄龍、四方位に青龍、白虎、朱雀に玄武を配し、その外側には干支や八卦が記されていた。
「これは……
「言うなれば異界の地図、というべきものかな」
「……地図?」
「異界は十二の王によって治められている怪異の世界」
「十二の王?」
「十二支は知っているね?」
「はい」茜は膝を揃え姿勢を整えた。
「北に水行を司る子と亥、南に火行を司る午と巳、東には木行の寅と兎、西には金行の申と酉、そして中央に土行を司る辰と戌と丑と未。これらの王がそれぞれ四神、四神の長を奉じて異界を治めている」
「十二の王というのは分かりました。ですが何故その存在が救出を難しくするのでしょうか」
「王が、我らを妨げるというのではないよ。問題はあの世界の律のほうさ」
「律? 掟のことですか」
「異界は、陰陽五行を絶対の律として成立している。例えば、火は水には逆らえず、水は木に逆らえず。また、木は火を助け、火は土を助ける」
「……
「そうだね。相生とは相手を生み出していく陽の関係、また相克とは相手を滅する陰の関係。異界では、この相生と相克のような五行の原理には絶対に逆らえないし、それが異界の秩序ともいえる」
「狛神と真神さえもこの法則に縛られる。つまり、行く先によっては苦手があると。闇雲に動けば神でさえ手出し出来ぬ事態が生ずると、そういうことですか」
「それだけではない。そもそも天界と異界は交わることがない。不可侵なんだ。だから彼らも、その律に従ってあちらには手出しが出来ない。四神、四神の長の許可がなくては姿を顕現させることすら出来ないんだ」
神座に名を連ねる者達でさえどうすることも出来ない世界。
蒼樹ハルは、そんな異世界で一人、細々と命を繋いでいるのか。茜は膝の上で拳を握った。
異界とは如何なる世界なのか。鬼怒川家の嫡子として陰陽道を極める茜でさえ異界への行き方も、対応のしかたも分からない。しかし、何も行動を起こさないというわけにはいかない。
現場の状況から見て、蒼樹ハルは相当な深手を負っているに違いない。
茜は再び雨の中で荒ぶる子供の姿を思い浮かべた。
あの時は並外れた妖力を顕していた。だが、今の彼には、その力の片鱗さえ見つけることが出来ない。以前、何者かに封じられているのかと父に尋ねたことがあったが、答えは否だった。雨の陰陽師と目される少年は内側に絶大な力を秘めながらも、行使する事が出来なかった。それは実は危ういことなのではないかと茜は考えている。彼は無自覚に黒の因果を解放した。見せた奇跡はまさに神業と言って良いだろう。きっと何か大きな使命のようなものを背負っているに違いない。その様な者を未知の場所で孤独に死なせるわけにはいかない。ましてや彼は雨の陰陽師である。
――孤独? 待てよ、違う。連れ去った者がいるではないか。
「父様、蒼樹ハルを異界へと連れ去ったの者の正体に心当たりはございませんか?」
不意に言葉が口を突く。自分でも何を言っているのだろうと思いながら尋ねていた。当然、父に知る由もないことは分かっている。
しかしながら……、茜は、父親の顔を見た。
この事件は偶然に降って湧いたものではないだろう。現場に黒鬼の気配があったことから鑑みても、恐らくは過去の出来事と何らかの因果関係があるのではないか。そのことは雨に関わる者ならば想像するくらいは難くない。
「心当たりといわれてもね」
「やはりダメですか」
予想した通りの言葉が返り、前のめりの姿勢から首が垂れる。
「それでも、その時の様子をもう少し詳しく話してくれないか」
父親は柔和な笑みを向けてきていた。そこに僅かな希望を見いだして茜は頷く。
「これは現場に残されていた物です。手掛かりといえばこれくらいしかないのですが」
いって茜は、懐から真子が事件現場から拾ってきた丸眼鏡を出して手渡した。
父親は手に取った眼鏡を眺めながら思案をした。その傍らで事の経緯を説明する。
「何やら呪が施されているようですが、私にはどうにも見立てることが出来ません」
「現場にいたのは、人が三人であとは妖者、か……」
「真子殿の話では、その場に黒の者が居合わせていたようです。そのことについて黒麻呂殿も否定はしませんでした。しかし、如何せん残り香だけでは情況も掴めず」
「黒の者か、それに草の者、なるほどねぇ」
「父様、何か分かったのですか?」
「どうやら眠っているようだね」
ひとり納得する父親が頷きながら言った。
「眠っているとは?」
「これに掛けられた呪は未だ解けていない。眠っているだけならば起こしてみよう。何か事情というものを聞かせてもらえるかもしれない」
父親は悪戯顔で笑ったあと、掌の上に置いた眼鏡に人型の呪符を重ね息を吹きかけた。
吹かれた呪符が眼鏡を抱いて宙へと踊り出す。
空中で旋風に巻かれるようにクルクル回る眼鏡。
白い呪符が茜の目の前で少しずつ少女の姿を形成していく。
胴体が大きくなると同時に手足が伸びる。顔が作られ、髪を生やす。肌が桜色に色づき始めると華奢な裸体を包むように衣服が現れた。
「朱色の髪……どこの子?」
自分と同じ学校の制服を見て思わず言葉を漏らす。
「君は、黒鬼の長の式で良いのかな? 話すことは出来るだろうか」
父が話しかけると、地にへたり込むようにしていた少女が居住まいを正して顔を上げた。
「私は緋花、名前はありません。黒の隠れ里に咲く花です」
悲壮を面に出して名乗った少女は堪えるように下を向き肩を震わせた。
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