第28話 茜の道
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その夜、茜は緋花を伴って敷地の外れにある社を訪れた。
「うちの敷地に、このような名も無き社があったとはな」
「ご存じなかったのですか、茜様」
「恥ずかしながらね」
苦笑を見せる心中で歯痒さを感じる。まったく、灯台もと暗しとは言い得て妙だな、と呆れるように言って茜は緋花の方へ振り返った。
朱塗りの小さな鳥居の前に立つと、奥には幅一軒ほどの敷地に小ぶりな社が鎮座していた。
大きな神社の境内には複数のこぶりな社を見かけることがある。これらは
さて、いま目にしているのは境内社なのか、それとも……。
朱柱に漆喰の壁という凡庸な見た目。ありふれた朱と白のコントラストはどこの神社でも見かける造りであり、取り立てて重要な建物には思えない。見たところ、
――隠秘されている。在り来たりを装いながら。
目立たない、目を引かない質素な社に呪の形跡を見つけた。人払いの呪が施されている。
「ここが、異界に通じているのですか?」
傍らで緋花が問う。
「路が見える。まず間違いはないと思う」
この社には異界へ通じる道があるはずだ。茜は父親の仕草、話す言葉の端々から推測した。
「茜さま、この様なことをなさって、本当に宜しいのですか?」
緋花が心配そうに覗き込む。
「藤十郎と小夜、二人の名を聞いたとき、僅かだが父の顔色が変わった。何かがある。この一件の裏には余程のことがある。私は知りたいのです」
父親は、昔のことは放っておけといった。だがこれは今生の一大事である。蒼樹ハルの命が危ない。自分には責務がある。鬼怒川の者として彼を助けるのだ。その為にも一刻も早く当たりを付けなくてはならない。
「唯一の救いがあるとすれば……大百足がハルちゃんを救おうとしたという事実か」
「ハルちゃん? 茜様は雨様と親しいのですか?」
「あ、ああ、いや、まぁ何て言うか、幼いときの顔なじみっていうか、縁があったというか。ハルちゃんはね、訳あって一時期この社で暮らしていたんだ。それでね」
説明をしながら胸に淋しさを抱く。ここで暮らした記憶はハルの中に残されていない。だから幼馴染みというのは一方通行の認識でしかなかった。
「あ、ああ、すまない」
茜は憂いを浮かべる緋花に気付いて気を取り直した。
「お一人で、大丈夫なのですか?」
「さぁ、どうだろう」
「そんないい加減な。お父上にもくれぐれも短慮を起こすなと言いつけられていたではありませんか」
「そうだね。でも大丈夫。危険なところだと承知してるし、この門も行ったきりで閉じる訳ではない。門を出たところで危険だと思えば直ぐに引き返すから」
「私もお供できれば良いのですが」
いじらしく心配する緋花。茜はそんな彼女に笑顔を返して不要を告げた。
「緋花が憑依しているのは、父の式といっても低級のもの。それではとても戦うことなど出来ないだろう」
「お言葉ですが、茜様とて本質は人間です。万が一にでも依代を失えば、実体を保てなくなり身動きが取れなくなる恐れがあります。それでは向こうから帰ってこられなくなります。いや、それどころか、加護亡き剥き身の妖力体になれば最悪は異界の気に負けて消滅してしまうことさえあり得る」
「分かってる。無茶はしないって。だから頼むよ、緋花」
茜は、手を合わせ頭を下げた。ここは是が非でも彼女の力を借りねばならない。
緋花は元は異界に咲く妖花であった。その花を異界から持ち帰ってこちらに根付かせたのは当時、黒鬼の長であった桂花と妹の黄櫨だという。
話を聞いた当初は異界にも花咲く彩りがあるのかと感心したのだが、父の次の言葉を聞いて空恐ろしい気分になった。「花は花でも、緋花はあらゆる妖怪を貪り喰らう凶暴な化け物である」
合点がいった。それはそうか。怪異の住まう世界である。花も普通に咲くわけがない。
妖花、緋花――花の一つ一つは取るに足らない弱者であるが、群生することで脅威が増す。種子に強烈な覚醒作用があり、一度でも食してしまえば求めずにはおられなくなる。彼らは種子を飛ばし獲物を陶酔させて引き寄せ捕食するのだという。
茜の隣で困り顔を見せる緋花。その可憐な様相からはとても毒があるようには見えない。もっとも、ここにいる緋花は黒の姉妹によって改良された種なので、異界にある野生の緋花とは違って妖力を喰ったりはしない。その能力は、取り憑いた妖怪から妖力体を分離することがせいぜいのようだ。
「緋花、しばらくの間、私の身体を頼む」
「長くは保たせられません。そのことをどうかお忘れになりませんように」
「承知している。必ず、ハルちゃんを連れて戻ってくる。そうしたら、次に黒の姫を助けに行くことを約束しよう」
「お待ち致しております。どうかご武運を」
行く先が未知の地であることに不安はない。むしろ気分は高揚していた。彼のために行動に移れることが嬉しい。実際に挑めることが嬉しい。独り善がりの、片思いの末の愚行であることは承知しているが、今はそのことを笑い飛ばせるほど喜びを感じている。
彼女から眼鏡を受け取り装着する。彼女に身体を預けて依代に移る。そうして異界へ乗り込む。これが最上の方策である。我が身でも異界に乗り込めないことはないが、順化するには時間が足りない。一刻を争う状況下ならば手段など選んではいられない。
茜は、緋花の顔に手を伸ばした。
「お待ちくだされ」
暗闇から不意に言葉を掛けられた。
父の支配下にあるこの社で、その目を出し抜けるはずはなかったか。茜はやはり、といって声の方に視線を向けた。
「破笠か、これは父の差し金か?」
父に言われて無謀を止めに来たのだろう。だが譲ることは出来ない。
「どうせ茜のことだ、そう頭首殿は仰った」
「そうか、それで?」
押してでも通る。もう止まれない。茜は意気込んで構えた。だが、当の破笠は苦笑を浮かべて肩を落とし呆れるばかりに首を振る。
「まったく、このお転婆娘の酔狂にはほとほと困らされる」
「破笠、戻って父様に伝えて下さい。間に合わなかったと。責任は私が取ります」
「茜殿、責任とは生きて取るもの。死んでしまえば取りようもない」
「私は、死にません。必ず生きて蒼樹ハルを連れ戻します。これは鬼怒川家の責務。後継として見過ごすことなど出来ない。みすみす雨を失うことは恥でもありましょう。ならば――」
「甘い!!」
雷のような怒声が落ちた。剛気な気勢に押されて思わず口ごもってしまう。
そんな萎える茜を見て破笠が言葉を続ける。
「異界を甘く見すぎている。彼の地は修羅の地。弱者は強者に喰われるが定め。その強者も隙あらば群れなす弱者に喰われる。彼の地は地獄でございます。小娘が少し呪を扱えるからといってどうなるものでもない。血筋など何の保証にもならない」
「それでも――」
「でも、なんですか? 敵のことも、戦場も、何もかも計ることが出来ないというのに、やり通せるなどとお思いか? しかもそのような玩具の如き鬼面に移って乗り込むなど、穴の空いた船で大海へのりだすようなもの」
いって破笠が、茜が手に持つ鬼面を嗤う。
「それでも、私は行く! 止めるならば力尽くでも」
「ほほう、未だ私から一本も取れない姫様が、大きいことをいいなさる」
破笠が笑う。おおように構える破笠がことのほか大きく見えた。
「緋花、下がっていなさい」
茜は、庇うようにして緋花の前に立ち、後ろへ下がれと命じた。
「どうしても行くと言い張りなさるか」
「止めるな、どうしても私は異界へ行く」
強い目で相手を見返す。
「仕方の無いお嬢様だ」
破笠は大きく嘆息し、やれやれとぼやきながら首を振った。
「破笠、それでは!」
「そもそも、よくお考えなされ。ここはどなたの領土であるのか」
「知っている。父の目を誤魔化せないことなど」
「何もかも、あの方はお見通しです」
「――え?」
「そこの緋花の体も、元はお父上の式でしょう。そしてこの地にある社も全てお父上が治めておられる。ここであの方に分からぬことはない」
諭されて茜は押し黙った。
「茜殿、これを」
いって破笠は懐から鬼面を取り出した。一目見ただけで分かった。金色に輝くそれは並のものではなかった。
「もしかしてそれは」
「これは鬼怒川家に代々伝わる法具の一つ。酒呑童子の名を頂く神器だと聞きました。それを娘にも使えるように調整されたと」
「父上が……」
「これを使うといい。酒呑の加護が守ってくれる。そう父上は申した。それと」
「それと? まだ何か?」
「すまぬが、この私に娘のお守りをしてくれぬかと」
「それで?」
「もちろん、快く引き受けましたよ」
「いや、破笠、いくら父の願いとはいえ、そこまでして頂いては申し訳が――」
「酒呑童子の加護を得たからといっても、小娘一人が勇んで乗り込んで、それで何が出来ましょうぞ。行く先は異界の地ですぞ」
「それは重々に理解しました。それでも」
「私にも行く理由があるのです」
「理由?」
「雨様には、いや、蒼樹ハル殿に仕えるのは左方の者の勤め。それと、私ども赤鬼衆は右方に大きな借りがある。以後、奴らに大きな顔をされないためにもここは誰が何と言おうとしゃしゃり出る他はござりませぬ」
破笠は破顔すると、大きな声を出して笑った。
赤鬼衆は、混血の黒鬼衆とは違って純血を維持する正真正銘の怪異であった。だから元の住み処である異界へ渡ることは造作も無いのだという。当の破笠も何度か異界へ渡ったことがあるのだと聞けば、これほど心強い味方もいない。
茜は、父より渡された黄金の鬼面に目を落とした。
これは温情というものではないだろう。娘に与える試練というのでもないし、突き放されたということでもない。――使命か。
「父様、行ってきます。不詳者ではありますが、必ずや責務を果たしてきます」
小さな社殿の中。
封じられ、眠るように横たわる身体は、すでに緋花の姿に変わっていた。
自身を見下ろす茜は神器を依代として妖力体となった。
「参りましょうか、破笠」
神体の前に手を翳すと、空間が歪む。その奥に連なる鳥居の道がみえた。
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