4章 運命と天命
第25話 情念
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さし焼かむ
薄月明かりに照らされて吟ずる黄櫨。心地よさげな彼女の顔を横目に見て眉根を寄せる。仙里は嫌味を含めてフンと鼻を鳴らした。
なんなら力尽くで口を割らしても良いのだがと、これまでに何度思ったか知れない。虜囚となってこの方、そろそろ不毛な茶番に付き合わされていることにも飽いている。黄櫨は何を企てているのか、自分はどんな理由で里に留め置かれているのか。
「あの唐変木めは、どこで何をしておるのだ」
小さく呟く。生きているのは分かるのだが……。
蒼樹ハルとの繋がりは一度途切れた。
死んだのではない。
気脈は一時的に何かに遮蔽されたものの暫くすると元通りに繋がった。それでも、以後の様子が何かおかしい。蒼樹ハルとの気脈は揺らぐようで安定しなかった。
小さな溜め息のあと、意識が黄櫨の方へと戻る。
辟易とした。仙里は、汚いものから目をそらすように視線を正面に戻した。だが、今度は涼やかに微笑む坊主が腕組み、目を閉じて耳を澄ませる様子が見えた。
唾棄すべき光景だった。心の底から呆れかえった。これはもう嫌悪も通り過ぎるようなもの。
まるで意味が分からない、といっても、和歌の意味が分からぬというのではない。仙里は、嫉妬に狂った女の気持ちなど理解したくもなかったし、妖である自分には無縁のものでもあると思っていた。
まず疑問を持ったのは黄櫨の思惑の方である。
黄櫨は、雨と黒の遺言を伝えると言っていた。それが聞いてみればこのように、下卑た色狂いの歌を満悦の顔で歌い上げる。
仙里は
「黒の婆様、何故にそのような憂愁の和歌を聞かせるのです? よもやそれが雨の遺言というものでもありますまい」
ゆっくりとした尚仁の口調は含意もなにも気取らせぬほどに凪いでいた。
「これが誰の詩境であるのか、ご存じであろう? 尚仁殿」
「さて、この歌は確か作者不明となっていたのではないでしょうか? その様なことを学生の頃に国語の先生から聞いたことがある気もしますが」
「教師から、か。白々しいのう、事がここに至ってなおも俗世一般を語るなど笑止、あなたは還俗でもする気か?」
黄櫨が品良く笑んだ。尚仁も事もなげに微笑をかえす。
「ついでに、といっては何ですが、この歌に反歌があるのも知っておりますよ、お婆様」
「ほう、面白いのう、是非にも請いたいものであるな」
「我が情 焼くも吾れなり 愛しきやし 君に恋ふるも 我がこころから」
陶酔するように歌い上げ、尚仁は悪戯小僧のようにニヤリと笑った。
「なるほど、曰くについても全て知っておるようだな」
黄櫨が淡々と言葉を返した。
奥歯に物が挟まったような掛け合いを見せられ、仙里は次第に苛々を募らせていった。
そもそも、仇敵同士で悠長に語らうなど仙里の性には合わない。いっそ罵り合ってくれれば面白い見世物となったであろうが、この二人の間にはまるで険がみえなかった。小さな胸の前で組んだ腕に段々と力がこもる。顔も引きつってきた。
「どうしたのです? 仙狸さん」
「…………」
徐に声を掛けられたが、腹立たしさのあまりに答える気にもならなかった。
「俺達は、ここで無意味なことを行っているのではないのですよ」
尚仁が、仙里の顔を眺めながら愉快そうに話す。
「お前らにはそうかも知れぬがな――」
言葉が怒気を纏う。するとそこで察した優男が目を細め、まあまあと手を出して仙里の言葉を遮った。その後、尚仁は意を確かめるように黄櫨の方を見ながら言う。
「仙狸さん、お前達と仰いますが今のこの事態、実はあなたも大いに関わっているのですよ。ねえ、そうですよね、お婆様」
尚仁が黄櫨を促す。仙里は、下らないと吐き捨てた。
「雨一族は何を企むのか、今度は何をやらかすつもりか」
「おやおや、俺達がまるで悪者のような口ぶりですね」
「この期に及んで見苦しいぞ、蒼樹ハルを痛めつけた陰陽師を、知らぬでは無いだろう」
冷ややかに尚仁を睨み付ける。ふつふつと湧き上がるこの怒りはどこからくるのか、頭には瀕死で横たえる蒼樹ハルの姿が思い浮かんでいた。
「確かに、
「何故に殺そうとしたのだ。お前達は雨ではない。そのことを納得したのではないのか」
仙里は尚仁を睨み付けた。そこに怒りを込め、殺気さえも抱かせて。しかし当の尚仁は仙里の気迫を涼風の如くしなやかに受け流した。微塵も慌てる様子はなかった。完全に侮られていることに歯を軋ませる。食えぬ奴めと呟いて仙里は身構えた。
「殺そうと、ですか……、やはり蒼樹ハルはまだ生きているのですね。いやぁ、あいつもなかなかにしぶといなぁ」
「……お前、やはり、あやつの命を狙って」
瞬時に沸点に達した怒りが仙里の全身を駆け巡った。怒髪する銀の髪が発散する気勢に戦ぐ。
「待たれよ、仙狸殿。無駄に命を散らすようなことをされては困る。こちらにも段取りというものがあるでの」
黄櫨より冷めた声が掛けられた。振り向き、ふざけるなと怒声を飛ばして睨み付けるとそこで黄櫨が不気味に笑う。
「おまえ、何を……」
「未だ気付いてはおらぬのならば教えてやろう、お前の力は既に封じられておる。もはや獣の姿にも戻れぬほどに弱っている。なので死に急ぐなと教えたのだ」
足掻くな、死ぬぞ、黄櫨は綽々と語る。
対して仙里は、戯れ事も程々にせよと吐き捨て戦いを決意した。
この時、黄櫨の目に浮かぶ鋭利な意思を見る。仙里は敵の余裕の表情に言い知れぬ危機を覚えた。――ここで討たねばこちらが危うい。
それは本能が告げるほどの戦慄だった。力を失った覚えはない。仙里は拳に力を込めた。
ところが――「何だ!?」
獣化した途端に四肢から力が抜けた。根を生やしたように動かぬ四肢を通じて生気が大地に吸い取られていく。焦燥と混乱が波打つように押し寄せる。傍らに嘲り声を聞いてすかざす目をやると、印を組んだ黄櫨が両腕を前に突き出して悦に入っていた。
「アハハハハ!」
老婆は、大笑いした後に「これで終いだよ」と
重さを増した大気が猫の体を地面へと押しつける。どうにも身動きが取れない。仙里は歯がみをしながら萎えた体を草叢の中に横たえた。
「猫の乙女、なにするものぞ」
「なにを!」
仙里は見下ろしてくる黄櫨を鋭く睨み変えした。
口惜しかった。ここ数日の間に不穏は何も感知できなかった。油断もなかった。それなのに、結果はこのように無様を晒す羽目になってしまった。
「しかしながら、流石は仙にまで昇華を果たした化け物。封じられていながら、こうも易々と獣化を成し遂げるとは思いもよらぬこと」老婆が嬉しそうに夜空を見上げた。
生温い風が流れる。
黄櫨は、
「今宵は下弦、この日から九日後の新月にお前はこの世から消えて無くなる」
頬を緩ませる老婆の発した言葉は死の宣告だった。黄櫨が満足な気配を満面に見せていた。
無力な仙里はこの時まさに文字通りの借りてきた猫だった。そんな憐れな猫の目がそこに見たものは……。彼女は大きく目を見開いた。辺りを見回して愕然としてしまう。
野原一面に広がる花の群れ。月明かりの元では色までは分からないが、間違いないだろう。咲き乱れるのは、あの呪いの花、朱色のヒナゲシだった。
「なるほど、お婆様の狙いは、彼女でしたか。それで彼女をどうするつもりなのです?」
尚仁が、しゃくり上げた顎を一撫でして見下す。
「別に、どうもせぬよ、これは唯の遊戯であるからな」
黄櫨が目を細めて応じる。
「遊び……確かにそうとも取れるのですがねぇ。遊びかぁ……うーん」
「なんだ? つまらぬのか?」黄櫨は、噛み殺すように笑ってから、態度を改め身を繕い言葉を継いだ。「惚けながらも盤上の駒を指す。お前もなかなかであるな、雨の後嗣」
「困りましたねぇ、盤上がどうのと言われましても、こちらはルールさえ知らされていないのですがねぇ」
のらりくらりと応える尚仁。その態度に一時は頬をひくつかせるが、黄櫨は薄い笑みで仕切り直す。不遜を改めよと静な口調で忠告し切り出した。
「余興の前にまずは聞こうか、潮の血筋よ、何故に蒼樹ハルを害そうとしたのだ」
――ん? 潮の血筋とは……。
仙里は尚仁を見た。
「さて、何故と言われましても」
どこまでも惚ける尚仁を見て、黄櫨は表情を曇らせた。それから暫し無言の時を経て老婆の深い皺が歪んだ。
仙里は、訳ありを感じて黄櫨と尚仁の会話に聞き耳を立てた。
黄櫨の話は、その声の調子に反してどこか重さを感じさせられるものだった。それは真に迫る予感と言い換えてよいだろう。
思うに、この事態は八百年前の敗戦を仇として起こされた黒の意趣返し。黒一族が永年の沈黙を破って行動に出た切欠は雨と目される者の出現に相違はなかろう。
蒼樹ハルによって呪いは解かれ、黒はその力を取り戻した。
未だ見た目に変化は見えなかったが、黒は何かを取り戻したのだろう。黒は遂に悲願を達成した。狙いは、新たなる雨の陰陽師を奉じて仇敵を討ち復権を果たすといったところであろうか。
「フン、言わずもがなであったな。乙女の血を引かぬお前達だ。おおかた、新たなる正当後継者の出現に焦りを募らせたのだろう、その気持ちは分からぬではないぞ」
話す黄櫨の声は優越の色を見せていた。
それにしても、雨一族が乙女の血を引かぬとはどういうことか。そもそも潮とは何者なのだろうか。その名は初耳であった。
話から当たりを付ければ、その潮とかいう女がおそらくは、雨の妻であり、一族の元を成した者で間違いなさそうだが。
仙里は頭の中で知り得た事柄を繋げた。
潮とは雨の妻である。
雨一族は潮の血縁であり乙女の血筋ではなかった。
――なるほど、そういうことか。
仙里は思い出した。あの時の黄櫨の言葉、不浄の血を継ぐとはこういうことだったのか。得心する。これはつまりは、雨の妻が乙女ではなかったという話なのか。
猫の口からウムと低いくぐもり声が漏れ出た。
これは道化もよいところである。数百年、いや、千年以上も血統を誇ってきた雨一族に、よもや月並みの女の血が混じっているとは思いもしなかった。
「あれくらいで死んでくれるのなら、事はもっと単純に進むのですがね」
仙里の耳が再び会話を捉えた。若き頭首は、黄櫨の話を今更と言わぬばかりにサラリと流した。話す尚仁の目に心の乱れは見えなかった。
解せない。仙里は、死なぬと確信するような尚仁の口ぶりに眉をひそめた。
――助かることを知っていた? まさかな。あれは、情け容赦のない振る舞いだった。そんなことがあろうはずがない。
「で、あるな。彼の者は天命を受ける者、然らばそう容易くはいくまい。それに、あのような者が乱入してくることまでは、お前達も流石に予測出来なかったであろう」
「あのような者ねぇ」
「唐突に湧いて出た不確定要素であるが、あの者らは我らとお前達のどちらに当たりをもたらせるかな。今回は八百年前の
黄櫨が面白がるような調子で話した。
闘諍堅固、互いに自説を主張して譲らず争うことをいう。どちらが正当であるかを主張しあった戦いというのは、おそらく雨一族と黒の争いのことを言っているのであろう。
不確定要素とは、あの百足と得体の知れぬ武人と覚しき男ことで、「今回は」、という言葉の意は、前回の争いについてもあの者らの介入があり、その事が勝敗を分けたということを言っているのではなかろうか。
八百年前の戦にもあの百足と武人が介入していたという。両者のどちらにも肩入れすることなく、不特定の因子として。
仙里は二人の顔を見比べた。どうやら、大百足と武人の出現については両名ともに預かり知らぬことらしい。
諍いに纏わる百足と武人とは如何なる者か。しかも、前回と今回、二度にわたって関わっている。これは偶然なのか?
……もしかすると、この一連の謎を紐解く鍵はあの百足にあるのではなかろうか。そう思いつくと何かがすっと心底に落ちた。だがそれでも、関連性については皆目見当もつかない。
――待てよ……。
黒鉄の百足を見たとき、心の何処かに覚えがあるような気がしていたのだが……。
「いつだ? それはいつのことだ」
仙里は遠く記憶を遡らせていった。
――大百足……ムカデ、……黒鉄のムカデ。
騒ぐ胸の内側に何かが触れるのだがその正体が分からない。体験したことなのか、聞き知ったことであったのか。仙里は歯がゆさに胸苦しさを覚える。
仙里は、記憶の奥底に意識を沈めた。
……黒鉄の大百足の逸話
それは応竜(水神)の噺。
時は知らぬ。
昔々のことである。
あるところに、一匹の美しい白龍がいた。
白龍はある日、竜の守人と恋に落ちる。
多事多難を乗り越えて白龍と守人は結ばれる。
概要はこのような感じだったように思う。
これはどこにでもあるお伽噺の一つとして数えられるのだが、結末は異色であった。実はこの話は大団円とはならない。白龍と守人の恋物語には続きがあった。
……確か。
白龍に横恋慕をした男がいた。その男は、あれやこれやと嫌がらせを行った末に討たれるのだが、最後の時に怨念を募らせて祟り神となる。――それから紆余曲折。記憶は定かではないが、黒鉄の百足は、確か、雨に関する逸話に出てくる守人の娘のことではなかったか……。
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