第24話 黒の姫君
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黒蝶の先導にしたがって山の小径を登る。もうどれ程の数の鳥居をくぐってきただろうか。
笛は、父親と歩いたあの日のことを思い出していた。一息ついて振り返れば眼下に延々と続く朱色の道が見えた。
歩いてきた距離の感覚と視覚が捉える回廊の長さに齟齬があった。なるほどな、笛は独りごちる。この道には呪がかけられている。道は一筋ではあるが、これでは闇雲に進んだところで目的の場所へ到着することは出来なかったであろう。まさに迷宮である。
それにしても、蝶は何処へ向かっているのだろうか。この道について、雨声は翠雨宮には繋がっていないと教えたが、それならば何処へ向かっているのか。
どうにも回りくどいではないか、笛はもどかしさに眉をひそめる。
怪しげなカエルの様子を探り見る。雨声は父のことを語りながら、待っていたと言わぬばかりに全て承知という態度を見せていた。待つと言えば、唐突に姿を現した蝶もそうだ。あれの登場の仕方も、まるで雨声と申し合わせていたかのようだった。
彼らはいったい自分を何処に連れて行こうとしているのだろう。その目的は何だ? これは力不足を見抜かれてのことなのか、はたまたとっておきの手段でも用意してくれているのか。
「何をしておる。遅れるな。はぐれると迷うて二度と出られなくなるぞ」
「あ、ああ、はい」
早く来いと手招きする雨声に頷きを返し、笛は再び歩き始めた。
「しかし、懐かしいのう」
「懐かしい? ですか」
「うむ。この道はの、先代雨音女の伴をして登った道であるからして、なんとも感慨深く思えるのじゃよ」
「そうですか、雨音女がこの道を……」
雨音女は雨の三宝のうちの一つであると聞いている。雨音女を得ることは、雨が竜門を開き天神地祇免状を受け取る為に揃えねばならない条件の一つでもあった。
「それはそれは美しい女性であった」
雨声が、目尻を下げながら胸を大きく揉みしだく素振りを見せた。
「…………」
顔をしかめて下を向く。笛はこの馬鹿ガエルを頼ってよいものか真剣に悩んだ。
どうしてこのような者が眷属なのか、雨音女の側仕えを任されるほどの臣ならば雨の信も厚かったはずであるが……。ここで笛は、はたと疑問を抱く。そもそも雨音女とは何だ?
「雨声様、雨音女とは何なのですか? 乙女は鏡の導きで雨を探すと教えられていましたが乙女は雨に選ばれた者だとも聞いた。雨恋も雨乞いとは違うようです。何が本当の伝承なのですか?」
「伝承のう……。笛よ、言い伝えなぞ先人の押しつけ以外の何物でもなかろう。殊に血統を誇る人間の言葉ならば尚のことじゃ」
「血統を誇る……それは、もしかして雨一族のことを言っているのですか?」
尋ねると、雨声は難しい顔をする。そうして暫し沈黙した後、溜め息を漏らしながらその名を告げた。
「
「うしおごぜん?」
「潮は海の満ち引き、御前は敬称じゃ」
呟くように教えると、雨声は悲しげに目を落とし語り始めた。
潮御前とは、雨の妻にして雨一族の系譜を作った女のことをいう。雨さまとは幼馴染みの間柄。彼女は幼き頃より募らせた想いを成就させ雨の正室となった。潮は才色兼備にして呪力甚大な巫女。これは正に雨の妻として相応しいものと誰もが彼女を認めていたという。
「幼い頃からの恋を実らせ掴んだ雨の正妻の座か……彼女は幸せ者ですね」
笛は、雨音女の恋物語を思い出した。どこか胸が温かくなった。
「事が人の世に限っていえば、確かに潮の生涯はそうであっただろうな」
「違うのですか? そういえば、雨の周囲には女が集うと聞いたことがありますが……。それでも当時は一夫多妻が常にあり、たとえ雨に側室があったとしてもそれが正室の不幸とまではいえないのではないでしょうか? それに、一族の流れは確かに潮御前に繋がるのでしょう? ならば嫡子を産んだ彼女に不満があったということはないのでは」
「笛よ、欲というものは尽きぬものでの」
「何が言いたいのですか?」
「笛よ、そこに名と実があるとして、一方しか手に入らぬとしたら、お前はどちらを選ぶか」
「それは、時と場合に寄りますね。それでも、たとえ一方しか手に入らなくても、それはそれで納得しますけどね」
「色恋においてもか?」
「え? ……はぁ、どうだろう」
「伴侶の座と、思い人の心、そのどちらかしか手に入らぬとしたらどうじゃ?」
笛は答えに窮した。伴侶とは相思相愛の間柄で成立するものだと思っていたからだ。もちろん、古今東西、全ての者がそうした関係を結んできているとは思っていない。物語の中にも不幸な婚姻関係は多々見られる。それでも潮御前の身の上に、そのような不幸は想像出来なかった。雨が相当の浮気者であり、常々泣かされてきた、ということは考えられないことでもないが。
『わが情 焼くも吾れなり 愛しきやし 君に恋ふるも わがこころから』
ふと、雨声に教えられた和歌を思い出した。
その歌は誰かを愛して苦悶する歌。苦しいのは自分の心のせいであり、何もかもが自分の心が原因なのだと思い入る。それはなんとも悲しい恋の歌だった。
「――笛よ」
「あ、ああ、そうですね。正直なところよく分かりません。その……私はまだそのように人を好きになったことがないので……」
「そうか」
「それでも教えてもらった和歌の意味は何となく分かります。あれは悲しい女心を歌ったものです。きっと潮御前もそのように辛いことがあったのでしょう」
笛は、苦笑いで取り繕った。カエルに向かって恋バナをしていることに気恥ずかしさを覚えていた。だが、心を浮つかせる笛に対して雨声は冷淡な態度を見せた。
首を傾げて雨声に意を伺う。すると程なく、彼は口を引き結んだまま左右に首を振った。
「あ、でも、潮御前もほら、地位も名誉もあったというか、ほら、雨音女でもあり雨の妻でもあったのだから、そこは折り合いをつけていたのではないかなぁって」
「笛よ、潮御前は、雨音女ではない。そしてあの和歌も潮の心情を歌ったものではない」
「――え?」
「彼女は選ばれなかった。それが何故なのかは分からぬ」
「潮が、雨音女として選ばれなかった?」
よもや正妻と雨音女が別々であったとは、聞いて笛は顔を強ばらせた。
雨恋という恋物語の先にある、名と実とを分けた悲しい結末。結果、雨音女は結ばれず、妻の座は潮のものとなった。なるほど、あの歌は、雨一族の系譜の裏側に隠された女のものだったのか、笛は恋敵に敗れた女の影を見る。
それにしても、雨音女とはいったい何なのだろうか。免状を受け取るための道具でしかなかったということなのだろうか。
いや、違うだろう。逸話を読み解けば分かる。雨音女は愛されていた。――だが結ばれることはなかった。雨音女は何者なのだろうか。
「笛よ、此度の一件も詰まるところは色恋沙汰が発端。雨音女の話には二つの悲しい恋の物語があるのじゃが、その一つが出会いの話。そしてもう一つが、今のこの陰惨とした事態を引き起こしている元凶、雨の正室、潮御前の恋の話となるのじゃ」
「黒が破滅に向かおうとしているこの事態に、潮御前の恋の話が関係しているのですか?」
「色恋というものは、華やぐ幸福をもたらすが裏を返せば儚く辛い一面を持つ。大きな幸の反対側には大きな不幸があるものじゃ。であるからこそ、色恋の嫉妬から生まれた怨念は呪いの中でも質が悪い」
「潮御前とは、そこまで悪しき者だったのですか。雨の正室に収まった人物でしょう。先程は心清き人と話されていたではないですか。そのような者が、雨の正妻である彼女が、そんなことってあるのかな?」
「確かに、彼女は正室の座を射止めた。雨様にも無碍には扱われなかった。いや、愛されていたといっても良いだろう。じゃが全ては満たされなかった」
「満たされなかったって、そんな」
「あやつは、勝ったと思うた。げに馬鹿らしいことよの。しかしながら、女の情念というものには得てしてそういう趣もあるのだろう。いや、あるな。だからこそ、潮は嫉妬で身を焦がし心に魔を宿した」
「妻の座も、嫡子も手に入れながら、それでも満たされなかったって……全てを手に入れておきながら何故。愛情さえも受けていたのでしょう、なんで」
「雨の死に水をとった潮御前をしても手に入れられないものがあった」
「願ってもとうとう手に入れられなかったもの、それは?」
「それは……」
雨声が言いかけて淀む。
そういうことか、察して笛は眉を寄せる。カエルが、うむと頷いて応えた。
「そうじゃ雨音女の号じゃ。潮御前もそれだけはどうしても手に入れることが出来なかった。しかも」
勿体ぶって話を止める雨声。笛は、食い入るように聞き入っていた。
「手に入らぬどころか、その号を得ていた者が恋敵であった。だからであろう、ゆめゆめ猜疑心を募らせていった潮御前は、遂に雨音女に対して怨嗟の情を燃やすことになってしまった」
「……そんな。潮だって愛されていたのではないのですか」
「潮御前は伴侶として満たされていた。何の不満も見せてはおらなんだ。しかしながら……、笛よ、時の流れは性分というものを塗り替えることがある。殊に人間は弱い。聖人さえ物の弾みで悪鬼に落ちる」
「それでも! ……それでもおかしい。潮御前の気持ちは何となく分かるとしても、我ら黒鬼衆が、彼女の子孫に根絶やしにされる理由が分からない」
「親が恨めば子も恨む。子が恨めば子の子も恨む。怨嗟は連鎖をするのだ。そうしていつしか、時を経た怨嗟は形骸化し、目的だけが使命という名の呪いと化す」
「……呪い」
「ことは八百年を遡る――」
雨声が話し始めたのは、今の成り行きの元凶となる黒鬼の長が討たれた戦の話だった。
文暦元年(一二三四年)のことである。歴史書の中に埋もれたその戦いは、帝による悪鬼討伐と記されているが事実は違うのだという。真相は雨一族が権勢に物を言わせて帝の軍を動かし起こした戦いだった。そうして黒鬼衆は、左方の赤鬼衆と一族の陰陽師を加えた人間の軍勢に破れた。時を同じくして、左方の真神は、これも雨一族の命を受けて右方の狛神を討伐して封じ込めたのだという。これにより右方は廃退を余儀なくされてしまった。
「と、これがあの時の戦の顛末なのじゃが――」
「しかし!」と笛は疑問を呈した。黒の長が敗れたのは八百年前だが、それは雨の没後三百年の頃に起こっている。当の潮御前も既に世を去っているではないか。
「使命といったじゃろう。やつらは、確かに雨の血筋ではあるが、雨音女の血は引き継いでおらぬ。これは雨音女になりそこねた潮の怨念であり、正当を欲する一族の悲願であるのだ」
「……正当?」
「彼ら以外に正当を誇れる者など……まさか! 雨音女ですか!」
「その通りである。雨音女は雨の子を授かった。血脈を謳うならばそちらこそが主流である」
「……雨音女の子。そしてその子孫達が邪魔だった。だから討った」
「それだけではないぞ。雨音女は、『鍵』を託されておったのじゃ」
「――鍵……。雨声様、雨の陰陽師とは何なのですか? 雨は血筋の者の中から出現するのではないのですか?」
「血脈による継承、それは嘘である」
「雨たる者は、鏡を得て、乙女を得て、左右を 整えて後、鍵を持って竜門を開く。そして免状を……」
「それは、先代が辿った道をなぞらえて言うたまでのこと。そもそも、雨の称号自体が諡号であろう。あれは我が主君が死して後に『雨』と呼ばれたまでのこと。よって雨の陰陽師の呼称そのものが一代限りのものである」
雨声の言葉が笛に雨一族の本性を見せた。
ふっと怒りが湧き上がる。
雨一族は笙子を利用して雨になろうとしている。彼らは、本来は継承しえない力を、条件を揃えて行使することで得ようとしているのだ。
合点がいった。黒鬼衆が、黄櫨が、長きに渡って「鍵」を隠してきた理由がこれだ。
「それではやはり、笙子は拐かされたのか」
「笙子、当代の姫のことか。そのことについても辛く悲しい話をせねばなるまいの」
雨声の悲しげな目が笛の胸を締め付けた。これ以上、まだ悲話があるのか、それを聞かねばならないのか……。
聞かされた驚愕の事実。虚構の上で血統を高貴と誇る雨一族――彼らが、よもやこのような仄暗い感情を継いできているとは思いもよらず、その上に、幼き頃より憧れてきた雨音女の恋物語さえも悲恋であったことを知らされた。心が静かに深い水の底へと沈んでいく。
――哀れな……。
笛はそっと心の中で呟いた。
誰がということもない。彼女は雨の物語に出てくる全ての者達に憐憫の情を抱いていた。
不意に父の姿を思い出した。きっと彼もこの事実に辿り着いていたのだろう。父も雨一族の欺瞞と、この悲しい黒の話に心を痛めたに違いない。
「これで全て分かりました。黒の苦難の理由も、潮御前に恨まれた雨音女の正体も」
笛は知った。これまでの話を繋げば明白であった。
「そうじゃ、雨音女とは討たれた黒鬼衆の長、
「……月桂」
「雨様と黒鬼の姫が恋に落ちる。その恋の折に黒の姫は雨によって名を受けるのじゃが、その名が『月桂』。真名までは知らぬが、確か元の名は
「大事なこと?」
聞き返しながら笛は俄に緊張する。立ち止まり、居住まいを正した雨声が真剣な眼差しを向けてきていた。目を合わせると、雨声がすっと視線を動かす。追っていく笛の目が蝶を映した。
「揚羽は、月桂様の娘。つまりは黒の姫である。そして、お前の先祖ということにもなる」
聞いても何を言われているのか全く分からなかった。
「笙子というものはこの世に存在していない。あれは器、あの肉体はお前のものだ。お前が黒の後嗣であり、お前こそが雨様と月桂様の血を引く歴とした血筋の姫なのじゃ」
「…………まさか」
「これから、揚羽と共に異界へいく」
「――異界?」
「お前は肉体を失ってしまった。現世で姿を顕現させるためには適した依代が必要となる。先ずは異界へ行き依代を手に入れる。全てはそれからである」
頭の中が真っ白になった。全身から力が抜けて地面にへたり込む。笛はそのまま暫く呆然としながら視線を宙で彷徨わせた。
「お前が黒の姫なのだ」
念を押すような雨声の声。それはあまりに突飛なもので受け止めきれないものだった。その後、何度も名を呼ばれたが、その呼びかけも身体をすり抜けていくようだった。
『――主を、そして自分を護れ。これは八百年続く悪しき因果。お前のその手で黒の業を断ち切れ。きっとそれがお前の定めなのだ』
呆然とする心の中に父の声を聞く。笛は父の背中を思い浮かべた。
「本当にもう、あなたの言葉足らずのせいで」ポツリと溢した瞬間に熱い想いがこみ上げる。「父様……。あなたは私を救おうとしてくれていたのですね」
虚ろに浮かぶ父に笑みを向ける。溜めた涙が零れ落ちた。
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