第18話 訪れた脅威

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 体感する振動が強さを増していく。遠くに感じていた脅威はあっという間にハルらの間近まで迫ってきた。

「ようやく動くか。さて、この七面倒な配剤の本領、見せてもらうとするか」

 赤く染まった川の流れを見て藤十郎がほくそ笑んだ。引き結んだ口、鋭さを増した眼光。物を言わさぬ迫力に気圧される。ハルは自ずと脅威を悟った。

「逃げましょう! 藤十郎さん」

 直ぐに走り寄り肩を掴んだ。だが藤十郎は微動だにしない。

「藤十郎さん!」

「逃げるといっても、どこへ逃げるというのだ?」

「樹海の中です。ここから離れさえすれば、身を隠すところはいくらでもある」

「ほう」

 藤十郎は、発現させた長槍を右手に持ち勇む気勢のまま不敵に笑んだ。

「ほう、って感心している場合じゃ――」

「既に敵がどれほどのものか見えているようだな。その直感は正しいと、先ずは褒めてやる」

「ありがとうございます、って、そんな悠長なことを言っている場合ではないです。何か良くない者が来ます。だから早く」

「これ程の事態に直面しても臆さずか。やはり面白いな、小僧」

「だから、面白いとかそんな無駄話をしている場合じゃないのですよ、僕の話、ちゃんと聞いてますか?」

 胸騒ぎがしていた。額が疼く。本能が感知していたのは、攻撃性を前面に出し押し寄せてくる数多の意志だった。否が応でも焦る。これまでハルは大群との戦闘を経験したことがなかった。幾度も命を狙われてきたが、そのどれもが差向いでの襲撃の回避というものだった。

 ――これは不味いことだ。

 経験もない上に武器も持たない。異界の化け物を相手に、いきなり実戦をせよといわれても出来るはずがない。しかも相手は群れをなして向かってきている。 

「逃げましょう! 早く、敵は多い。いくらあなた方が無類の強さを誇っていても多勢に無勢です」

 ハルは必死に説得した。それでも藤十郎は受け付けなかった。彼の意志は既に戦いに向いていた。

「俺は待っていたのだ、この時をな」

「待っていた?」

「分からぬのか?」

「…………」

「考えろ、小僧。全ての事柄には条理がある。何かが起きる時、そこには必ず原因があるのだ。それが因果というもの」

「……いん、が」

 因果――原因と結果。藤十郎は考えろといって諭す。因果、それは仙里と出会ってから以降、度々耳にしてきた言葉だった。

 事態が起こる理由……もしかすると、この襲撃の原因は自分にあるのだろうか? 

 ハルは雨の陰陽師と呼ばれる自身の存在を問うた。

 自分は好んでこのような境遇に陥ったのではない。これは無理矢理に押しつけられた……押しつけられた……定めによる……。

 焦燥の内に抱いたのは単純な拒絶と嫌悪だった。強く首を振り心に蓋をする。ハルは考えることを止めた。

「因果なんていわれても、納得できるはずないでしょう! 僕にどんな落ち度があるというのです。こんな、なぶり殺しのような罰を何故受けなければならないのですか」

「これを罰というか、なるほどお前は受け身が過ぎる。それは実に愚かなことだぞ」

「罰じゃなければなんなのですか、雨だかなんだか知らないけど、僕はこんなことを望んじゃいない」

「それでも、敵はやって来る」

「だから、一刻も早く逃げ――」

「どこへ逃げるというのだ? いま逃げても、直ぐ次が来るぞ。そうしたらまた逃げるのか? 永遠に逃げ続けるのか?」

「……それは、でも」

「御託はいい。四の五の言えど、ここは妖どもが住まう修羅の世界だ。腹をくくれ。さあ、来たぞ小僧、精々頑張ることだ」

 藤十郎の話が終わるなり、付近の草叢から何者かが飛び出してきた。気配を追って見上げると宙に飛び上がる獣の姿が見えた。

 全身が赤毛で覆われた獣。体躯は大きめの小学生とそう変わりがないが、その俊敏性は比べるまでもない。

「――猿か、いや、違うな」

 ハルは見つける。襲ってきた猿は頭に角を生やしていた。

 裂けた口、黄色をギラリと光らせた双眸には明らかに狂気が宿っていた。

 こいつは、鬼で間違いないだろう。

 猿の鬼が赤ら顔の中でニヤリと笑う。ハルを目掛けて大鉈を振り下ろしてくる。

 慌てて飛び退いた拍子に尻餅をついた。

「そいつは猿鬼さるおに、小物だが、少々頭が切れる。油断するなよ」

 一撃を空ぶった鬼がすぐに振り向きハルの方へとにじり寄る。

「あ、あの……助けては……」

「助ける? 何故に」

「何故にって」

「こちらには、お前を助ける義理はない。それに」

「それに?」

「事態は好都合。お前に手を掛ければ、俺は小夜に恨まれる。だが、これは不慮の出来事、その事象の中でお前が他の者に殺されるのならば、それは仕方なしと言えよう」

 ハルはハッとする。先程、藤十郎は「待っていた」と言っていなかったか。

「キュキュッ」

「――小夜!」

 見ると小夜は、藤十郎の手の内で握られるようにして動きを封じられていた。

「キュキュキュキュ!」

 彼女が束縛から逃れようと身をよじる。

「何を見ている。戦いの最中に呆けている場合ではないぞ、小僧」

 指摘され、ハルは慌てて敵の姿を探した。

 視界に鬼の姿はない。それでもハルは、横手から来る殺気を捉えて身体を捻った。ギラつく刃が鼻先を掠める。つんのめるように体勢を崩した猿鬼が目の前を通り過ぎていった。

 目はすかさず襲撃者を追尾する。離れた場所で猿鬼が体勢を立て直して振り向く。

 クツクツと笑う敵は獲物を前に舌舐めずりをした。その口から涎がしたたり落ちる。

「こいつは僕を、食い物として見ているのか」

 何という世界か。人の争いには、僅かでも言葉を交わす余地がある。狂気の中にでさえ主張はある。だが、今のこの戦いはどうだ。

 善悪が入り込む余地など無い。この戦いは至極単純に己の生存を賭けて行う殺し合いだった。敵から感じ取っていたのは喰うという欲求のみである。ハルは野生にある弱肉強食の摂理を体感していた。

「どうした小僧、踊っている場合ではないぞ」

 確かにそうだ。死が直ぐ側まで来ている。相手を殺さねば自分が殺されてしまう。

 自分がこの危機から逃れるための最適解はただ一つ、相手を殺すことだけである。

 ――だが、殺せるのか?

 普段から虫を殺すのにも躊躇してしまう。虫でさえそうなるのだから獣などは以ての外。ましてや相手は猿だ。ハルには、人型の敵を殺すことが殺人を犯すことと同じように思えていた。

 殺しは、嫌だ。出来ない。

 戸惑いの中で、猿鬼が動く。低く地を這うように飛び出した。

 相手は速かった。それでもこの様な直線的な動きならば見切って躱すことは容易い。ハルは一撃を食らう直前で真横に飛んだ。

 ――だが! 

 見切っていたのは相手の方だった。

 腕を振る仕草をブラフとして猿鬼が反転する。敵はそのまま直角に跳ねてハルに追いついた。

「取った」と敵の目が笑う。猿鬼はハルの至近距離で大鉈を薙いだ。

 刃の軌道をしっかりと眼に映しながら、敵の凶器を腹に受ける。瞬時に死を悟った。

 ドン、という衝撃、鈍い打撃痛の後に焼かれるような激痛を受ける。

 映画の中で観る斬られ役は断末魔の呻き声を吐くが、実際に斬られてみれば声など出る余地も無い。

 怖かった。止まることのない痛みが、ひたすらに恐ろしかった。意識は、止めどなく与えてくる痛覚を、ともかく遮断しなければと藻掻くのみで、ハルは死を目前に狼狽えることしか出来なかった。 

「おい、小僧、何をグズグズしてる」

 藤十郎の嘲り声を遠のこうとしている意識の片隅で聞いた。

 ハルは、地にうつ伏せのまま息の根を止めにくる敵を見上げた。

 嬉々として武器を振りかぶる敵。――これで、終わりなのか。

「おい、小僧、忘れたのか? いまのその身体は、お前の本物の肉体ではないだろう」

「――え?」

 何を、と思うと同時に首を捻る。ハルは振り下ろされた刃の光を反射的に躱した。

 身に受ける振動と土の臭い。目だけを真上から左へ向けて見る。

 顔の直ぐ横、耳からほんの数ミリのところに地面に突き刺さっている鉄色を見た。

 鼓動が走る。肝を冷やした。今のは、かなり危なかった。

 九死に一生を得たところで思考が動き出す。ハルは地を転がるようにしてその場を離れた。

 何が起こっているのか、自分は何故動けているのか、事実を目の前にすればそのようなことはもう論点にはならなかった。ハルは起き上がり、怖々と腹の具合を探った。

「……傷が、ない」

 敵が首を傾げていた。ハルは裂けた衣服を見た。攻撃を受けたことに間違いは無いが、痛みは既に引いていた。

 窮地を脱した獲物と、仕損じた狩人。両者が訝しみながら再び視線を交わす。猿鬼が警戒する様子でハルの周囲をゆっくりと回り始めた。

「当然だろう、今のお前は何だ? 人か、それとも化け物か」

「……今の僕、これは妖気で出来た、身体」

 ハルは両手を持ち上げて確かめた。手に付いているはずの血糊はどこにも見えなかった。

「その通りだ。そして、忘れたのか?」

「忘れた?」

「お前は既に、衣服やお前自身を具現化してみせているではないか」

 言われて、なんとなく意識を向けると衣服が再生された。

 ハルは、そっと腹を撫でた。斬られたことも事実、痛みも本物だった。それなのに傷がない。

 ――受けた傷が塞がったのか。ハルは異界に来て妖怪になったことを実感した。

 改めて認識し直す。自身を助けた力を率直に有り難いと思うが、情況を受け入れるのは容易でなかった。実感が持てない。これは自分の身体なのか? まるで別の何かに乗り移って……いや、身体に相応する物を操作して戦う……、これは……と、ハルは頭の中で類似する現象を検索した。

「そうか、アバターか……」

 それはゲームのキャラに扮することだった。

「キュキュキュ!」

 気を抜くなと小夜が呼びかける。ハッとして意識が戦場に戻る。

 再び、仮想現実の中で猿鬼からの殺気を受けた。今度は、余裕があった。化け物になった事実が動きを軽くしていたのだろう。

 落ち着きを取り戻せば何のことはない。相手は、普段の稽古相手よりも随分と与し易かった。

 疲労も感じない。躱し損ねれば痛みを受けるが、身体の傷は直ぐに修復できる。ダメージを可視化するようなHPゲージなど見えないが分かる。どうやら回復は無制限に行えるらしい。

 いつしか恐怖も薄らいでいた。

「おい、小僧、さっさと済ませろ」

 藤十郎から声が掛かった。済ませろという指示は、相手を殺せということに他ならない。

 敵の攻撃に合わせステップを踏む。戦いの流れに身を委ねながら縦横に振り回される大鉈の軌道を的確に読み取る。猛攻を凌ぐ最中に相手の表情を観察するゆとりすらあった。それでも、

「ダメです。僕には出来ません!」

 殺されなくはなったが、殺せるようになったわけではない。ひたすらに命を刈り取ろうとしてくる刃を見てもハルの思いは変わらなかった。

「甘いぞ、小僧。それでは生きてはいけぬ」

「僕は死ななくなっています。こいつが、なんとか諦めてくれれば」

「ぬるい。それが生身ならばもう数回は死んでいるのだぞ。敵は殺し合いをしている。ならば相手を殺すまでは終わらない」

「それでも僕は、殺しは嫌だ!」

「愚か者めが、ならばもう少し現実というものをみせてやろう」

 いって藤十郎が小夜を解放した。放たれた小夜が見る間に強大化をして猿鬼に襲いかかる。

 ハルの目の前にいた獣を、小夜の牙がかっ攫っていく。

 高々と持ち上げられた猿を見る。止める間もなく小夜の牙が鈍い音を鳴らした。

 ――一撃だった。

 上空から血が降ると間もなく二つに分かれた胴体が落下した。

 血だまり、ばらまかれた臓物、不自然に曲がる身体から剥き出した白い骨。

 地面に広がる凄惨な光景を見てハルは手を口に当てた。これが生身であれば胃の中のものを全部吐き出していたに違いない。膝を落とし地に手を突きハルは空の嘔吐を繰り返した。

「小夜は、お前のために敵を殺した。お前を救いたい一心で敵を排除したのだ」

「……藤十郎さん」

「どうやらお前は、殺しを厭う者のようだ。では聞こう、殺しは悪か? それとも罪深きことか?」

「それは……」

「殺しを忌避する気持ちは理解は出来る。だが殺しを悪とする倫理は、あくまでも人の世においての事。ここは人の住む世界とは違う。同じ道理では動いていない」

「それでも、僕は、殺したくない」

「その理由は?」

「――理由?」

 ハルは、藤十郎の問いかけに答えることが出来なかった。それでも、命を奪われる痛みの反対側にある殺意を肯定することがどうしても出来なかった。

「お前の妖力も無尽蔵というわけではない。妖気体となっていても、力が尽きれば死を賜る。これが摂理というものだ」

「……摂理」

「それにだ、お前を死なせないために敵を殺した小夜が罪深いというのならば、殺すことによって救われたお前自身も同じく罪深いのではないのか?」

「それは……」

「小夜は敵を殺した。お前が敵を殺しておけば、小夜は殺しを行わずに済んだのだ。いわば、敵はお前が殺したに等しい。違うか?」

「……藤十郎さん」

「守られるということは、つまりはそういうことだ。お前は一方的過ぎる。お前の行動はいつでも独り善がりにすぎない」 

 ぐうの音も出なかった。反論しようとしても納得させられていて出来ない。敵を殺すことで守られたという事実がハルの心を過酷に締め付ける。

「立て、小僧」

 冷えた声に応じて顔をあげた。藤十郎の視線は森の方を指していた。

「次が来る」

 いわれて、ハルはハッと目を見開いた。

「いま死んだこいつは斥候に過ぎない。敵は大勢、これはお前から聞いた言葉だったと記憶しているのだが? この情況、もはや殺さずに済むということはない。受け入れろ。それがお前の立つ所だ」

「それが、雨の……」

「嫌だ嫌いだといいながら名に拘るのか?」

「でも、僕は――」

「捨てろ」

「え?」

「お前は、お前だろう」

 藤十郎は、フンと鼻を鳴らしてみせた。

 木々が一斉に葉を鳴らすと、森の中に数多の黄色の瞬きが出現した。

 大群を向こうに、揚々と挑む武人の背を見送る。小夜も藤十郎に続いていった。

 戦慄の中で、ハルは立ち上がり二人の後を追った。

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