第17話 修羅の森

       -17-


 耳を澄ませる。精気が満ちる森の中でせせらぎを聞いていた。

 萌葱の川面に落ちる木洩れ日、照り返す水の青の煌めき、異界の清流は森の息吹を映し込んで美麗を装う。なんて清々しい、ハルは深く清涼を吸い込んだ。

 ――チッチッ。耳元で百足が鳴いた。

「小夜、おはよう。今日も良い天気だね、気分はどう?」

「チッ、チチッ」

 実のところ百足が鳴くのかどうかを知らない。多分、いや、鳴かないだろう。百足に声帯があるなど聞いたことがない。

 それでも小夜は鳴いた。笑うように、歌うように、小夜は日ごとに、喜怒哀楽を声で表現するようになっていった。

 ハルがこの世界に来てから既に三日が過ぎていた。

 事件の後、目を覚ましたときに直ぐ、ここが異世界の深い森の中だと悟ったのだが……、それにしてもこの木々に覆われた世界はどこまで続いているのか。――本当に、ここは妖怪達が住む世界なのだろうか。

 ハルらは今も森の中を歩いていた。

 目に付くのは樹木ばかり。異界と呼ばれるここは、人界とは隔てられた怪者の住まう世界だというが、未だに一匹の化け物にも出くわすことがない。

 あまりに美しい景色。あまりに平穏な空気。この世界は、奇々怪々な者達の血生臭さからはおよそかけ離れているように思える。 

 眺める川の中で影が動いた。何だろう、動きを追って見る。ハルが水の中に手を差し込むと、驚いた魚が水面から飛び出した。

 流線型の魚体が鱗を輝かせる。妖怪の一種というよりは異界の魚というほうが当てはまるだろう。それは馴染みのある川魚に似ていた。

 しばらくの間、胸びれを鳥のように羽ばたかせて上空を舞う魚を眺める。水中で青かった魚体が空では極彩色に変化していた。このような奇妙な生態の魚は日本の渓流には見られない。やはり、ここは普通では無いのか。

「藤十郎さん、この魚って食べられるのですか?」 

 ふと思いついて尋ねてみた。

 少し離れた場所でうまそうに煙管きせるをふかす藤十郎。彼はハルの声を聞こえぬと言う素振りで無視した。仕方なく空飛ぶ魚へと視線を戻す。風の中を泳ぐ魚は見惚れるほどに美しかった。

「今のお前には食事など必要あるまい」

 藤十郎からの素っ気の無い回答を耳にする。

「まぁ、そうなのですが……」

 藤十郎に言われたとおり、ハルは食事を必要としなかった。それでも、妖気で出来た身体は空腹を感じないのだが、どことなく口寂しい気はしている。日に三度の食事を取らないことがこれほど時間に対する感覚を失わせるとは思いも寄らぬことであった。

 ハルは何気なしに空飛ぶ魚に向けて手を伸ばした。

「キッ、キッ!」

 小夜が鳴いて何かを知らせた。

「やめておけ」

 藤十郎が遠くを見ながら煙草の煙を吐く。

「はは、どうせ、食べられないですもんね」

 自分の食い意地に恥ずかしさを覚え苦笑する。ハルは少し残念に思いながら肩を落とした。

「手を出せば、喰われるのはお前の方だ。だからやめろと言っている」

「――え?」

 驚かされたハルは、反射的に手を引っ込めた。

「そいつは人でも化け物でも何でも喰らう暴食だ。もちろん妖気の塊も例外ではない。それに今は一匹だが、血に酔った群れは手が付けられないほど凶悪になる。余計な事はするな」

 ハルは辺りをぐるりと見回した。一見すると穏やかに見える。だが、普通に見えた魚の実態を凶悪と教えられれば認識も反転する。凡庸な生態の裏側に隠し持つ狂気。木々も花々も、動物も魚も、全てが生存の為に美を偽装しているのではないか。

「いま、こうして無事でいることがすごく幸運に思えてきました」

 ハルは軽快な水音を立て川に戻った魚をみて胸をなで下ろした。

「今頃か、図太いやつだと思っていたが、それが胆力によるものではなく無知からくることであったとは呆れるばかりだな。まぁ、お前の無事は、ずっと張り付いて離れない小夜に感謝をするのだな」

 言われて肩口に乗る小夜を見る。目が合うと、小夜は照れるようにササッと動きハルの首の裏側に逃げた。

「おいで、小夜」

 そっと手を差し伸べると小夜が掌の上に乗った。 

「ここは修羅の世界、強者は弱者を喰らう。弱者も隙あれば群れになって強者を喰らう。一瞬の隙も許されない世界なれば、自ずと相手の器量を悟るというもの。獲物を見つけても手に余すと思えば手出しはしない。小夜は強者だ、故に何者も我らを襲ったりはしない」

「……そうか、だから今までも、生き物を目にする事が少なかったのですね」

 食物の獲得と己の生存を天秤にかけることは、なにも異界だけの理と決まったわけではない。それはハルの住む世界でも同じである。野生の営みの中でそれはごく当然の分別であろう。

 ハルは、掌の上の小夜に礼を言った。小夜はキュキュッと鳴いて恥ずかしそうに首を背けた。こんなに可愛らしいのに……。異界の何者をも寄せ付けない力。きっと小夜は無類を誇るような強者なのだろう。

 この可愛らしい少女を何とか助けてやれないものだろうか……思ってハッとした。小夜を少女と見立てているこの感覚はいったいどこからくるものなのか。

 表層と深層、虚と実。目を凝らしそのことを知覚することは、美しい森の正体を修羅場として見て取った感覚によく似ていた。

「小夜、また試してもいいかな?」

「キュキュッ」

 ハルは、そっと両手を重ね掬い上げるようにして小夜を手の中に乗せた。

 小夜と目を合わせ合図を送る。目を閉じたハルは額の真ん中辺りに意識を集中させて祈った。

 ――邪なものよ、去れ。

「懲りぬ奴、何度やっても同じ事だろうに」

 藤十郎の声を聞いて目を開く。手の中で小夜は裏返り腹を見せていた。

「やっぱりダメか」

 初めて行ったときには外殻に亀裂のようなものが見えたのだが、今はヒビ一つ入っていない。それどころか、心なしか小夜の外骨格は今までよりも更に強度を増したかのようにも思えた。

 やはり、壊すというイメージではダメなのだろうか……。

 考えあぐねていると、小夜がぴょこりと体を返し首を擡げてキュッキュッと鳴く。小夜はどこか嬉しそうにしていた。

「藤十郎さん、小夜は……、小夜に掛けられた呪いとは何なのです?」

「お前には関係ない」

「それでも、僕にはあと四日しか残されていないのですよ、しかも竜門とやらもまるで姿を見せない。僕達はどこに、いや、これで本当に間に合うのですか?」 

 ハルは、小夜を見つめながら藤十郎に問うた。藤十郎は、やれやれ、と溜め息をついた。

「七日と言ったのは、俺の勝手な見立てでしかない。それは三日であったかもしれないし、十日かそれ以上かもしれなかった」

「え?」

「そもそも、俺に小夜の腹具合など分かるはずもないだろう」

「それならば何故?」

「本来なら、人間が妖気だけで存在するなどあり得ぬ。だが、お前は現に存在している。しかも実体としてだ」

「……実体?」

「俺達が人の世界で実体を顕現なさせるためには触媒が要る。実はそれは人の魂魄も同じなのだ。現世では人の魂魄でさえ肉体があって初めて動き回ることが出来るのだ」

「つまり、今の僕は肉体と分離しているから本当ならば動くことが出来ないと、そういうことですか?」

「それだけではない。今のお前は、自我を宿らせた妖気体でこの世界に干渉している」

「干渉?」

「形を作り、五感を得て物に触れている。そのようなことは普通出来ない」

「そう、なんだ」

 ハルは、へへ、と笑って頭を掻いた。

「デタラメな奴だ。それに、しぶとい。俺は三日もすればお前は消えてなくなるものだと考えていたのだ」

「でも、三日過ぎても消えなかった。思惑は外れちゃいましたね」

 ハルが笑うと、藤十郎は眉根を寄せた。その顔からは少しの敵意と少しの迷いが見て取れた。

「藤十郎さん、仮にですが、小夜が僕を消化してしまえばどうなりますか?」

「お前、自分のことはどうでもいいのか?」

 藤十郎が面倒くさそうにハルを見た。

「こうなってしまった以上は、ジタバタしても仕方ないじゃないですか」

 笑顔を向けると、呆れ顔が返る。

「普通ならば、妖気体のお前も消えてなくなるだろうな」

「普通でなければ?」

「――ずっとこのままだ」 

 それも悪くない気がする。ハルは近くの木の根に腰を下ろして辺りを見回した。

 上空でそよ風が舞うと葉擦れの音が心地よく騒いだ。

 確かにここは危険な場所かも知れない。それでもここの空気には妙に自身を落ち着かせる何かがあった。

「ところで、藤十郎さん」

 ハルには確かめたいことがあった。

「なんだ」

「藤十郎さんは、何故今、僕を殺さないのですか?」

 妖気の存在が消化を阻害しているというのならば、その妖気の方を始末してしまえばいい。これは簡単な理屈のように思えた。

 藤十郎の力を持ってすればそれは容易いことだろう。小夜のお気に入りになっているとはいえ、彼女を救うことを第一命題としているならば迷うこともないはずである。

「今のお前を始末したところで、また小夜の体から妖気が出てくるかも知れぬではないか」

「ああ、なるほど」

「俺は迂闊だったと悔いている。完全に息の根を止めてから喰わせれば良かったとな。だが、お前は死ななかった。というか、致命傷であるはずの首の傷は何故だか直ぐに塞がってしまったのだ。お前の首はまるで予め用意されていたかのように攻撃を受ける体勢が整っていた。それに、あれ程の血を流しておいてなお、お前は何事も無かったように振る舞う。小夜の腹の中でも生きている。その様な者をどうすれば殺せるというのか」

 藤十郎に言われて、ハルは騒速の行為と、驟雨の言葉を思い出した。

 ――あの時に、驟雨がいった「黒の先触れ」とはこのことを予期してのものだったのか。矢に射貫かれたときは無駄死にしてしまうことに絶望を覚えた。しかし騒速によってチャンスは残された。ハルは騒速に感謝すると同時にこれは困ったことになったと首を捻った。 

 これから何をどうすれば良いのか、と考えた時、ハルは「あ!」と声を漏らす。もしかすると、この騒速の一手により小夜を救う手立てが無くなってしまったのではないだろうか……。ハルは、伺うように藤十郎を見た。

「藤十郎さん、もしかして……。妖気である僕も消せない。消化も出来ないとなると……」

「ああ、お前の思うとおり、これで手詰まりになった」

「なんとか小夜のお腹から僕を取り出すことは出来ないのでしょうか?」

「小夜はお前を吐き出せなかった。それに……」

 それに? ハルは食い入るように藤十郎を見て次の言葉を待った。

「小夜は祟りによって自害を許されぬ体になっている。お前も見ただろう、小夜はお前を助けるために自らの腹を食い破ろうとしたが、出来なかった」

「あ、ああ、そうでしたね」

「死ぬことを許されぬのだ。小夜は生涯、醜い百足として生き続けなければならない。こんな俺のために……こいつは」

「藤十郎さん、どうすれば小夜は」

「生まれ変わるより手立てがない。だが、死ねぬ以上はそれは」言いかけて藤十郎は我に返った。口惜しそうに歯がみして沈黙する。その後で捨てるように呟いた。「お前には関係が無い」

「またそれですか」

「お前が小夜をどうしたいかなど、お前の勝手な思い込みでしかない。余計なお世話だと言っているのだ。軽々しくこちらの事情に踏み込んでくるな」

 言ったきり、藤十郎はそっぽを向いてしまった。

「キュキュッ、キュッ」

 小夜が鳴く。円らな黒い目玉をハルに向けて一生懸命に話しかけてくる。まるで慰めてくれているかのように。

 ハルは空を見上げた。浮雲がのどかな風に乗って進む。穏やかな日差しには温もりがあった。

 片手に小夜を乗せ、もう片方の手の指で小夜を擽った。

 やめてやめてと小夜が転がる。調子に乗って更に擽ると、小夜がむくれてハルの指先を噛んだ。チクリとした痛みとも思えない小さな刺激を受ける。と、その時、ハルの意識が何かを掴んだ。繋がりと言い表すべきか、それはまるで、接続したポートから情報を吸い上げるダウンロードといったものに類似していた。

 余りに高速で、余りに難解。その情報にハルは付いていけなかった。だがしかし、確かにそれはハルの記憶に埋め込まれたようだ。

 気が付くと、指から離れた小夜が不思議そうにハルの顔を覗き込んでいた。

「ああ、小夜、ごめんね。ちょっと他に気を取られてしまって」

 言いながら、こめかみを押さえる。ハルは自身の内側にむずがゆさを覚えていた。小夜から流れ込んだそれが何かを知っているような気がする。だが、言葉に表すことが出来ない。

「ハ、キュ?」

 その小夜の声は、ハルの名を呼ぶようだった。聞き間違いではないだろう。確かにいま、小夜はハルの名前を呼んだ。

「小夜、君はいま――」

 もう一度、名を呼ばれたい。そう思って小夜に話しかけた時だった。小夜の体が小刻みに震えた。見ると百足が纏う空気が荒ぶるものに変化していく。 

 ――なんだ? ハルも周囲の変化に気付いた。藤十郎を見ると、立ち上がり警戒するように辺りを観察していた。

 突然、木々が騒ぎ始める。空気が重くなった。

「なんだこれ!」 

 清浄を湛えていた川に一筋の赤い線が流れた。

 ――これは血?

 次の瞬間、青の流れが赤一色に染まった。

 地響きが鳴る。周囲の木々から一斉に鳥のようなものが飛び立った。

 唸る咆哮を耳にする。嫌な者の気配に触れてハルの肌は一気に粟だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る