第16話 異界へ
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黒々と立ち上る煙の中に沸き立つ焔。猛火の中で家族は燃えた。
泣き叫び、救いを求めながら地を這いずるのは、車外に投げ出された唯一の生存者。少年は激痛を堪えながら手を伸ばした。
届かぬ願い。耳に残る呻き声と、人の焼ける匂いと涙の味。決して消えることのない悲劇の記憶は今もハルに悪夢を見せ続ける。
鼻を突く煙の匂い。夢は何時になく生々しかった。
逃れるように跳ね起きて虚ろからの解放を知る。ハルは項垂れたまま固く目を閉じ、心を空にした。毎度繰り返すその行いは、消去でもなく再構築でもない。ただの
あの時、家族とともに死んでいたならどれだけ楽だっただろうか。
両手の中に血泥の幻影を見ながら、いつもと同じ事を、同じように考えた。
パチパチ、音が聞こえた。
――篝火?
辺りを照らす仄かな明かり。頬に浴びる熱をぼんやりと受け取る。何かが腕を這ってハルの掌に向かった。反射的に虫だなと思った。普段なら驚き飛び上がるところではあるがこの時は何故か嫌な感じはしなかった。
胴長の黒い虫が……百足が、ハルの掌の上から顔を覗き込んできた。
「……小夜か」
名を呼んだところでハッとする。ハルは小夜を乗せていないもう片方の手で首を押さえた。
「大事はないぞ、傷は塞がっている。込められていた呪も失せている。とはいえそれはお前の肉体のことであり、今のお前には当てはまらぬ事ではあるがな」
藤十郎が穏やかな声で教えた。
「肉体? 今の僕?」何のことだろうと思い五体を確かめてみると……「な! なんだこれ、なんで僕は裸に、しかも身体が透けて――」
「煩い、大きな声を出すな」
「で、でもこれって!」
「大声を出すなと言っている。人の声が響けばこの辺りの化け物が騒ぐ。騒いで後、血肉を喰らおうと集まってくる。それは俺に余計な手間をかけさせるということだ」
周囲を見回す。死を予期した昼が平穏な夜に変わっていた。あれからどれくらいの時間が経過したのか。
覆い被さる木々、枝葉の隙間から星空が見えた。どうやらここは森の中らしい。全方位に無限と言わぬばかりに広がる木々の息遣いを捉えてハルは悟った。
「ここは、僕の住む世界ではないのか……」
「ほう、感じ取ったのか。やはりただの盆暗とは違うようだ」
藤十郎が木の棒で槙を転がしながら淡々と返す。百足が声の調子に合わせてハルの掌の中で遊んだ。
「小夜、くすぐったいよ」
ハルが笑うと、百足も併せて笑うように口を開く。ハルは小夜を乗せた手を空へと向けた。その上げられた手の中で百足が這う。落ちてしまわないように手首を返すと小夜は悪戯をするように裏側へと隠れた。
「睦まじいものだな」
小夜が、このように他者に心を許すことはないのだと藤十郎は言う。その言葉はどこか皮肉交じりではあったが、ハルは少しだけ孤独から解放されたように感じていた。
「藤十郎さん、ここはどこなのですか? あの時、僕は死んだと思った。でもここはあの世ではないようだ。僕はどうなってしまったのですか?」
「お前はまだ、死んではいない。が、今の状態は生きているとも言えない」
「……それはまた、随分と中途半端な」
どうせならあのまま死んでいれば良かったのに、悔やむ思いがハルの口元に苦笑を誘う。
「お前は、本当に生に執着がないのだな」
「死にたいと思っているのではありませんよ」
直ぐに答えた。ハルに自殺願望はない。命を無駄に捨てる気持ちもない。生かされていることには何かしらの意味があると思っているからだ。
「それでも、お前は犬死にを好むたちらしい。簡単に命を捨てようとする」
「捨てる? それに犬死にって。せめて役立てるといって欲しいですね」
ハルは戯けるようにいった。その言葉を呆れ顔で受け取って藤十郎が言葉を継ぐ。
「お前が、その命をどう扱おうとそれはお前の勝手だ。そもそも俺は、人間の生き死になどに興味はないからな」
「そう言いながらも、僕を助けてくれた」
「成り行きに過ぎない。小夜があの場から離れようとしなかった。だから仕方なくだ」
藤十郎は、表情を動かすことなく応えた。
「そういえば、藤十郎さん、あの時、小夜は僕の血を浴びたようだけど、それで呪いは解かれたのでしょうか?」
「…………」
「結構な血が流れたと思いますが、それでも足りませんでしたか? あ、あれですか? 小夜が小さくなっていたのではダメだったのでしょうか? あの時、これで文字通り血を浴びるってことになって良かったなって思ったのですが」
「呆れた奴だ。お前、此岸の汀でそんなことを考えていたのか」
「ええ、まぁ」
ハルが頭を掻いて笑うと、藤十郎はスッと視線を外して焚き火をみた。
「先程、犬死にだといった」
藤十郎が持つ棒の先で炭が
「……それでは」
「ああ、呪いはそのままだ」
「藤十郎さん、これからどうするのですか?」
「お前には、関係なかろう」
ハルは、自分の指先でじゃれる小夜を見た。彼女の本性は白蛇である。その姿は今も百足に重なるようにして見えていた。
「なるほど、歪みは出来たものの剥がれ落ちるには至らなかったか」
「……お前には、それが見えているのか?」
「ええ、ぼんやりとですが」
蛇の本体を内側に収めている百足の体。おそらくはそれが小夜を封じている呪いの正体だ。その百足の体には、前には見られなかった細かい亀裂が入っていた。
「もう少し、ってところまで行けてるのだとは思うんだけどなぁ」
ハルは試しに「解けろ!」と念じてみた。一瞬だけ小夜の体が淡い光を放つ。だがそこまでだった。
「余計なことはするな。それはお前でもどうにもならないようだ」
「どうするのですか? このままでは――」
「同じ事を言わせるな」
「僕には関係ないと?」
「それよりも、お前にはお前のやるべき事があったのではないのか?」
問われてハルは押し黙った。先の騒動については、行きずりの出来事の上に事情も分からない。黒鬼事件の延長のようなものだと考えられるが、事が自分の問題であるかといえばそうとも言えない。それに、助けを求めてきた緋花は消えてしまった。代わりに姿を現した笙子は謎の男に連れ去られ、その場に残された黒髪の少女には、面識もない上に命を狙われる始末である。
「不憫だな、とは思うのですが……」
「存外、雨とは薄情者なのだな」
「また、雨ですか」
「嫌なのか?」
「藤十郎さんは、初めから僕を雨とは呼ばなかった。なのに何故、今になって雨呼ばわりするのですか」
「問いかけたのは、俺の方なのだがな。だがまぁいいだろう。俺は雨には興味がない。必要だったのは……」
「それは?」
「こちらの話だ。お前に話す必要も義理もない」
言ったきり藤十郎は口を噤んでしまった。
「ところで藤十郎さん、さっきの話ですが、聞きたかったことがもう一つあったのですが」
「……ああ、そうだったな」
「僕の身体はどこにいったのでしょうか?」
「…………」
「藤十郎さん?」
「小夜に喰わせた。お前の身体は、そいつの腹の中だ。死んではいないが、生きてもいない。先程、俺はそう教えたはずだが」
「――へ?」
素っ頓狂な声を漏らす。同時に小夜がハルの掌の上で頭を持ち上げ小首を傾げた。
「幸運だった。労せずして聖者の血を受けることが出来た。だが呪いは解けぬ。どうせならと、肉を喰わせた」
「ああ、なるほど」
思わず嘆声を漏らすが、この時、小夜が徐に巨大化した。
ハルは他人事のように感じ入っていたのだが、どうやら小夜は納得がいかないらしい。上空から藤十郎を睨み付けていた。
「流石は雨と目される者。直ぐに消化とまではいかぬが、もって七日というところだろう」
藤十郎は涼やかな調子で話した。ところが、聞いた途端に小夜が反抗するように唸りをあげた。彼女は嫌々をするように首を左右に振ると、のたうつようにして腹の中のものを吐き出そうとした。
「方便を用いたことは済まないと思っている。だがこれも、小夜、お前のためだ」
藤十郎は語調も穏やかに諭そうとするが、彼女は聞き分けなかった。挙げ句には自身に牙をたて、腹を食い破ろうとする始末。堪らずハルは小夜に駆け寄りその黒鉄の肌に触れ話しかけた。
「小夜、落ち着いて。僕なら大丈夫だから」いうと、小夜は動きを止めてハルの方を見返った。「僕はまだ死んじゃいない。これにはきっと理由がある。ねぇ、そうでしょ? 藤十郎さん」
藤十郎はハルの問いかけに応えることをせず、ジッと焚き火を見つめていた。
不意打ちを嫌い、無手の者との対峙を厭う。そんな潔癖な者が理由なく卑怯な真似をするはずがない。言い訳もせずに、だんまりを決め込む藤十郎を見てハルは微笑んだ。そんなハルの様子を見て小夜も落ち着きを取り戻し再び身体を縮めた。
小さくなった小夜をひょいと持ち上げ掌に載せる。ハルは話しかけた。
「君は、優しいね」
掌の上で、小夜がモジモジと身体をくねらせた。
「藤十郎さん、それで? これから何処に行くのですか、僕の身体は腹の中、どうやら消滅するまで小夜とは離れられないようです。ならばついて行くしかないのですが」
「……不本意だが、事ここに至れば仕方ない。俺達は、竜門に向かうことになるだろう」
「竜門? ああ」
応じた声に張りはない。げんなりしているハルを見て藤十郎は言葉を足した。
「勘違いするなよ、お前を導こうとしているのではない。これはあくまで不承不承の事だ」
「というと?」
「どうやら俺を買いかぶり過ぎているようだが、俺はお前の思うような者ではない。これ幸いとお前の身体を小夜に喰わせたのは紛れもない事実だ」
「それは、事情が」
「最後まで聞け。小賢しかろうと、卑怯と言われようと、俺には小夜が大事。だから喰わせた。言い訳などせぬ」
「それでも僕はこうしてあなたと話している。それがどういう訳かは分からないけど」
「ここは怪者の住まう世界だ。人間の血の臭いに敏感な者が数多ある。それらの者が大挙して押し寄せてくれば如何に俺でも面倒になる。だから俺は小夜にお前の身体を隠すように頼んだ。無論、あわよくばという願いも込めてだがな」
思いも寄らず面倒なことになった、藤十郎は疎ましそうに眉を寄せた。
「それは?」
「――お前を喰わせて終わりと思っていた。だが、ここに到着した途端にお前の意識が小夜の身体から抜け出てきた」
「……意識」
ハルは自身の身体を確かめた。
「それは魂魄というものでもない。妖力の塊といったものだ。どうしたものかと思いあぐねていると、それはすぐに人の形を成し、やがて意識を持って目覚めた。今のお前は、さながら怪異といって申し分ない」
「僕が、妖怪に」
「そうだ。怪しげな力をもった意識体、それが妖怪というもの。人の世では触媒がなければ具現化出来ぬそれは、妖怪と呼ぶことが一番収まりの良い表現になるだろう」
「意識ねぇ。だから僕は裸なのか」
「格好など、お前の意志でどうにでもなるぞ。ここは怪の世界だ。思えばそれが具現化される。衣服も、武具までも。ただし、それは己が力の大きさに応じてということになるのだがな」
取りあえず、身体を失ってしまっていたのだが……、これはこれで、ひょっとするととても便利なことではないだろうか。思考は前向きだった。
ハルは、試しにここに来るまでの格好を思い浮かべた。すると直ぐさま身体が制服を纏った。「おお!」次にハルは、透けているのも落ち着かないなと思い自身の身体を思い起こした。これもまた成功する。調子に乗ったハルは、次々と服装を変え、髪型を変えた。
「呆れた奴だ。それは、容易いことではないのだがな」
藤十郎が溜め息をつく。
「藤十郎さん、それで、竜門に到着した後の話ですが」
一通り遊んだ後、ハルは本題に入った。
「道は容易ではないというのに気の早いことだ。だが、既に然したる問題ではないか」
「それは?」
「定めある者は、順路を進む。『雨』を背負うお前ならば尚更のこと。どんなに拒んでも定めはお前を追うだろう」
「そうして、雨になった僕を殺す。ですか?」
「そうだな。小夜を救う為に、もう一段上の格が必要とあらば取らせればいい」
「そして、その期限は僕の肉体が消失するまで。あと七日、ということですか?」
「分かりが良いな。随分余裕を見せるが、それはお前の命の刻限でもあるのだぞ」
「どうせ一度死んだ身です。それに」
「それに、なんだ?」
「僕が死ぬとは限らない」
「ほほう」
面白いことをいう、皮肉交じりにいって藤十郎は口元を緩めた。
「藤十郎さん、あなたは僕に定めがあるといった」
忘れもしない。藤十郎は、学校のグランドで『天の配剤』と呟いた。この出会いにはきっと意味があるのだとハルは考える。それならば――。
「僕は、僕で小夜を救う手立てを考えてみようと思います。それが僕の定めだと思うようにします。その方が、雨云々になるより余程素敵だし意味がある。七日で手段が見つからなければ、命を賭して正々堂々と戦います。僕が死ねばそれまでです。だが、僕が勝てば」
「お前が勝てば」
「その先も手伝わせて欲しい。僕も小夜を助けたい。その為に事情を話して頂けませんか?」
「……お前」
言いかけて藤十郎は口を噤む。瞳の中で映す炎が小気味よく揺れていた。
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