第15話 日照り騒動

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 偉丈夫の一つ括りにした髪が高い天井を掃くかのように荒ぶる。

 ハルの依拠、寺の本堂で一堂に会する眷属達。一刻を争う事態が起きていた。

「おい、破笠はりつ! これはいったいどういうことだ!」

 色黒の偉丈夫が座する男を見下ろし吠えた。怒気を受けた男は、大岩の如く泰然と腕を組んだまま畳に視線を落とし低く唸った。

 凄む獅子神の王と、黙して口を噤む右方赤鬼の筆頭が変事を前に相対する。

「黙りなぞ通用せぬぞ! 奴らは何を企んでいるのだ! お前らはまた雨一族と結託して、また……」

 黒麻呂は太い腕を突き出しそこで不満を握りつぶした。憤りを押し止めるように口を結ぶ。言葉尻に覗かせた牙が軋みを立てた。言葉を飲み込んだのは、信義にもとることを嫌ったからであろう。義理堅い男である。

「獅子の王よ、先ずは落ち着きましょう。ハル様は死んではいないのです」 

 とがり声を吐く少女、紫紺の地に無数の花を咲かせた小袖が肩を怒らせていた。

 真神の姫、真子まこ。見た目は自分とそう変わりがない少女。一七、八歳くらいに見えるが彼女は数百の齢を数える狼の神。

 切り揃えられた青銀の短髪が震える。褐色の肌に青く輝く双眸が心許なく揺れていた。

 真神の姫が、しとやかで可憐な見目とは真逆の様相を見せていた。ハルの無事を口に出しながら歯ぎしりを聞かせる。彼女は、口惜しそうに唇を噛みながら拳骨で胸を押さえていた。

 ――蒼樹ハルの消失。

 主の危急を察知した真子が現場である学校のグラウンドに到着したときには既に後手を踏んでいた。

 そこにハルの姿はなく、いや、何者の姿もなく血だまりが風により波紋を描く光景のみが残されていたという。

 大量に流された血は、誰に聞くまでもなくハルのもので間違いないと真子は断言した。

「真神の姫よ、確かにあいつはまだ死んではいないだろう。気脈を辿れなくなっているとはいえ、それくらいは俺にも分かる。だがあれは尋常なことではない」

 黒麻呂も先んじた真子に数分と違えず現場に到着したらしい。

 彼の周囲に不穏な気配や危険を察知する事は無かった。

 茜は、黒鬼の事件が解決した後も引き続き、蒼樹ハルを見守る任を継続していた。

 怠りはなかった。自分の観察眼に疑うところはないと言い切れる。

 ――皆も、そうであろう。

 茜は対峙する三人とは少し距離を置いて場を眺めていた。

 眷属達の誰一人もこのような事態を予期していなかった。それでも、事件は起きた。その日、学校で何が起こったのか。 

「冷静になれ、ハルちゃんは死んでいない」

 茜は、自身に言い聞かせた。胸に抱く強い痛み。火照る身体に汗ばむシャツが張り付く。壁にもたれさせた背はいきり立っていた。胸の前で組む腕は己に向かう怒りの暴発をかろうじて押さえ込むがそれでも漏れ出る殺気は止めどがない。

「現場には大量に血を流された形跡が残されていました。いくら超常の力を有しているとはいえ、ハル様の本質は人。無事では済まないでしょう」

 真子は正座の膝の上で拳を握った。

「破笠よ、今更に古い遺恨を持ち出してお前達を責めようというのではないのだ。ただ、あの場には相当な術者による術の痕跡が残されていた。並ではない力の行使、それは雨の一族によるものではないのか? ならば……」

「…………」

 破笠は何か思い悩む様相のまま押し黙っていた。

「お前達、赤鬼衆はこれまでもずっと雨の血筋に従っていた者達だ。俺は、少しでも手掛かりなりなんなり思いつかぬのかと尋ねているのだ」

 黒麻呂が言うと、真子も同調して破笠をみた。

 二人の視線を受けて坊主頭が大きな背を小さく丸める。赤鬼の長は袈裟の肩紐をずらしながら深く溜め息をついた。

「あの場に残っていたのは、四匹の化け物と三人の人間の匂い。それで相違ございませんか」

 破笠が上目遣いで確認した。それを黒麻呂と真子が頷きで肯定する。

「刺客を送り込んだのは雨一族ではないのか? 黒の一件もそうだが、あのように老獪な策を弄する輩どもならあり得る。今回の一件もまさに青天の霹靂。隙を突かれたといっていい。それに動機も十分だと思えるのだがな」

「……考えられません。あの騒動の際、宗主、尚仁様はその力の差を見せつけられ観念させられた。ハル様が見せた器量はそれ程に大きいものだった」

「宗主、それに、未だあいつのことを敬称で呼ぶか、まるで今でも臣下のような振る舞いよな。破笠」

「そ、それは」

 黒麻呂の嫌味に破笠は動じて顔を持ち上げた。

「こちらは力尽くでいっても良いのだぞ、いくらお前でも我ら二柱を相手にするのは骨折りだろう?」

 挑まれた破笠は、黒麻呂の勇み顔を見た後に真子の方を見た。

「逸りなさるな、獅子の王。ここで諍いを起こしてどうなりますか」

「ほう、これはこれは。左方はまた連むのか」

 黒麻呂はどうにも怒りが収まらぬ様子だった。その獅子の挑発に真神が睨みを返す。

「少し落ち着きなさいと言っているのです」

 今度は真神と獅子神の間に火花が散った。殺気立つ二人は臆面もなく覇気を上辺に現していた。これは捨ててはおけない。茜はウンザリとしながら今にも破裂しそうな怒気の間に割って入った。

「お前ら、神のくせにバカなの?」

 二柱が揃って首を茜に向ける。

「フン! 酒呑の小娘が、随分と物を言う」

「茜殿……」

「お前達は、ハルちゃんを助けたくないのか? その忠義は奈辺にあるのか、少しは道理というものを考えろ。頭を冷やせ、この、バカ犬ども」

「うぬぬぬぬ」

「……茜殿」

「落ち着けと言っている。ハルちゃんは生きている。今は、対応を考えることこそ肝要。もう一度、情報を整理しましょう。真神様、お願い出来ますか?」

 茜は、黒麻呂と真子に向かって微笑んだ。そうして話を先へと促した。

「まず、現場についてですが、確かに争った形跡はありましたが一対六は考えられません。血の臭いがハル様のものだけではなかったことも腑に落ちない。これは、残り香を辿った上での私の想像、確たることは言えぬのですが、恐らく、ハル様は……」

 真神は狼の神、その属性故に嗅ぎ取ることには長けている。ならば情況の検分に間違いはないだろう。

 茜は得た情報の辻褄を合わせ事の顛末を想像した。

 現場に居合わせていた者の匂いはハルを含めて七つ。痕跡は、一対六の襲撃によるものではないという。茜もその事には直感で同意していた。

 恐らくは、と、真子が言いかけて止めた言葉の続きを自分なりに継ぐならばこうだ。――恐らく、蒼樹ハルは誰かを守ろうとして傷ついたのではなかろうか。

 そのことは血を流した人間がハルの他にもう一人いたことでも推測出来る。彼に人は傷つけられない。傷つけたのはハル以外の者だ。ひょんなことから暴走してしまう事はあるかもしれないが可能性は低いだろう。現状、彼の力は秘められたままであり、あの黒鬼事件の際にも箍が外れることが無かった。何より蒼樹ハルの本性は殺生を厭う。これは確たる事実だ。

「一つ、確認したいのだが」

 破笠が意を決した目つきで尋ねた。

「真神の姫よ、あなたが考えあぐねている要因の一つのは、その場にいた面子によるものではないですか?」

 問われて真子が難しい顔をする。黒麻呂はスッとそっぽを向いた。

 真神の姫が懐疑を抱いている事とは何か……茜は態度を分けた二人の様子を注視した。

「話では、現場は人払いが成されていた痕跡があったと」

「如何にも」

「それは、ハル様を襲うにしても大仰ではありませぬか?」

「破笠殿、それは?」

「衆目のある場所を選んでおきながら人の目を避ける。それはおよそ計画的な行動には思えませんが」

 理路を正すような口ぶりで破笠が話す。茜は感心し目を細めた。

 赤鬼の誼というわけではないが、普段から稽古を付けてもらっている彼には信を置いている。破笠は父の信も得ていた。茜は、破笠が言わんとする思惑の次に出てくる言葉を待った。

「破笠、お前は何が言いたいのだ」

「雨一族は、曲がりなりにも世の日陰を束ねてきた者達だ。そのような権威も実行力もある者達が取る行動としてこれは余りに稚拙に過ぎる」

「ほう、ではこの事件、お前は誰の犯行だというのだ?」

「それは未だ分かりません。いま私に申せる事とは、私にとってもハル様は大事ということ。そして、この一件に赤鬼衆は無関係であるということだけ」

 破笠の強い目が黒麻呂の威を押し込んだ。

 疑う目と真摯な目が意志を孕んで交錯した。目は口ほどにものを言うというが、この時の二人は黙したままでも多くを語り矜持を競っていたように見えた。

 ――やがて、

「仕方ない。今は承知してやろう」

 黒麻呂は根負けしたように肩で息をついた。

「その上で尋ねます。黒麻呂殿よりも、先に到着した真子殿の方がより正確な情報を得ているものとして今一度聞きたい。その者らの特徴を」

 破笠が胸を張り背筋を伸ばして尋ねる。

「ハル様を囲んでいた気配と匂い、それは、化け物が四つと、残りが三つでこれは人だ。呪術の痕跡から見て敵は相当の手練れだろう。化け物についてだが、ひとつは草で花の香りがした。もう一つは虫。これは詳しくは分からないが何やら穢れを纏う者のようだった。残りの二つの化け物についてだが、その種族は分からない」

 真子は慎重に言葉を選びながら説明した。

「……分からない、そうですか。曖昧ですな」

 破笠が腕を組み唸る。

「申し訳ない。心像を試みてもあやふやになってしまうのだ。強いて言うならば妖気の塊だったとしかいえないのです」

「虫、草、得体の知れぬ者、これでは掴み所もないではないか」 

 黒麻呂は苛立ち吐き捨てた。

「そうとも言えぬ。黒麻呂殿、あなたには我らには分からぬ何かを感じとっておられるのではありませぬか?」

 何やら含みのある破笠の言葉。問われた黒麻呂は僅かに目を細めた。

「何か、とは?」

「やれやれ、胸襟を開いて頂いておるものと思うておりましたが、これは拙僧の独り善がりでございましたか」

 破笠は真っ直ぐに黒麻呂を見た。「そうだな」と、真子も破笠に同意を示す。彼女は何か思いついた顔で黒麻呂へと向き直った。

「あそこには、黒の者がいた。違いますか? 獅子王よ」

 破笠は踏み込んだ。形勢逆転と言わぬばかりに立場を反転させられる獅子神の王。今度は黒麻呂が押し黙った。

「あり得ない。当初、私も考えました。しかし、気配には僅かだが右方を匂わせるものがあった。どうなのですか? 黒麻呂殿」

 真子が膝を進めて詰め寄る。

 黒麻呂は低く唸った後、憮然としながら二人を見た。

 場が息を呑むと、渋々といった具合で黒麻呂が言葉を発する。

「そうだな。あの場には、黒の者がいたようだ。だがしかし――」

「黒麻呂殿、あなたを、右方の方々を疑っているのではありません。ただ……」

「ただ? ただ、何だ?」

「古き遺恨、古の戦について、我らはあくまでも右方の裏切りを知らされそれを正すために戦ったのでありそこには野心もなく含みもなかった。我らは一途に雨の血筋に従って来たに過ぎないのです。我らの本意は正真正銘、雨の眷属で在ろうということなのです」

「……破笠、お前、今度もまた我ら右方の仕業というのか」

 ギラリと黒麻呂の瞳が怒気を浮かべる。

「そうは申しておりません。我らは、血族の悪事に加担してしまったことを恥じております。我らは愚を犯した。それでも雨様への忠義の心はあなた方と同じ、何ら変わりはござりませぬ。元より雨様に従うことこそが我らの悲願。蒼樹ハル様の一大事とあれば、一命を投げ出す覚悟があるのです」

 互いに雨の眷属。譲らぬ矜持が激しくぶつかり合った。

 獅子神と真神、黒鬼と赤鬼、凡そ八百年前に削りあった者達の遺恨はまだ各々の中で燻り続けている。易々と水に流せる事では無いのだろう、無理も無いことだと理解は出来る。しかし、今は身内で争っている場合では無い。

 ――どうすれば、蒼樹ハルの無事を確かめられるのか……。

 茜が考えあぐねていると、真子が思いついたように言葉を発した。

「そういえば、あの者は今どこに?」

 真子が周囲を見回す。探す仕草を見て茜も思い出した。ハルの現状を察知できる者の存在を。

「そうか! あいつか。なるほど、あいつなら、あの猫ならばハルの状態が分かるだろう。それどころか居場所も分かるはずだ」

 獅子神が表情に明るさを見せて手を打った。

 黒麻呂はここでようやく怒らせていた肩を丸めた。破笠だけが何のことだと訝しんで眉をひそめていたがそれはもう問題ではない。聞けば分かる話なのだから。

「あの仙狸は、直にハル様に使役されている妖。いわば一心同体ともいえる存在です。彼女ならば、ハル様を追えるのではないですか? 彼女は今はどこに?」

 真子が徐に尋ねた。だが、互いに顔を見合わすばかりでその場には答えられる者がいなかった。一同の間に再び沈黙が流れた。

 ――これでまた手詰まりの状態に戻ったな。茜が項垂れたその時だった。

「これはこれは、揃いも揃って」

 情けない、と冷ややかな声が襖の向こう側から聞こえてきた。

 ススッと襖が開くと、白と黒の虎柄が衣擦れの音を纏って現れた。

「一心同体というのならばもう一人おりましょうに。眷属どもはこぞって馬鹿とみえる」

 皆が一斉に揶揄する者の顔を見る。

「騒速!」

「…………」

 名を呼んだ途端、彼女は何故か不機嫌になりプイと余所を向いた。

「く、黒の太刀殿、それで、その、もう一人の一心同体の者とは……」

 黒麻呂が、騒速の機嫌をなだめるように尋ねた。

「紫陽です」

「紫陽? 黒の太刀殿、それはどこのどいつだ?」

「『朱塗りの太刀』と申せばお分かりか?」 

 ゆっくりとした所作で、騒速は各々の膝元にお茶を運んだ。出された湯飲みを受け取って口に運ぶ黒麻呂。茜も続いて湯飲みを手にした。手に伝わるほんのりとした温もりからは騒速の人柄というものが感じられた。獅子神も真神も今は人の形をしているがその属性からして熱いものを苦手としている。熱い茶などとても飲めない。

 茜は、なるほどこれは気心が使えると感心して騒速を見た。

「おお、あの太刀か! それで、その紫陽は今どこに?」

ならば、揃って囚われていますよ」

 無表情で淡々と答える騒速。彼女の態度は終始落ち着いた物腰にして冷静なものだった。

 唐突に知らされた虜囚の知らせ。告げられた内容はとんでもないものである。

 黒麻呂は聞くなり茶を吹き出した。真子は固まり、破笠は測りかねる様子で首を傾げた。

 彼女の白々しい態度に唖然とした。一瞬、聞き違えたのかと思い騒速の顔を二度見する。茜は湯飲みを畳の上に落としてしまっていた。

「あらあら」

 いって下を向いた騒速。前に伸ばした腕にはらりと美しい金の髪が落ちる。

 何事も無かったように振る舞う金髪美女。袂から布きれを取り出し茜の膝を拭い、畳を拭いた。

「あの……、囚われたって、それは?」

「仙狸殿と紫陽は、共に黒の隠れ里にて囚われの身になっております。ハル様は、事情は話せば長くなりますのでひとまずこちらへ。ともかくハル様に至っては」

「ハルちゃんに至っては?」

「半分死んで、半分生きているってところでしょうか?」

「はあ?」

「まぁ、そんなこんなで、今は異界いかいにおられますね」

「い、異界だと! それに、そんなこんなとはいい加減な! これはどういうことだ!」

 部屋中に響いた黒麻呂の怒声が空しく騒速を通り抜ける。雨である蒼樹ハルを見失って緊迫していた場は潮が引いたように白けていた。

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