第6話 あやかし少女

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 体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下の一角で、入道雲が沸き立つ青空を見上げた。

 暦は既に秋の始まりを告げていたが、空は盛りを失うことなく真夏のままだった。それでも、時折吹くようになった北風からは冷気を感じ取ることが出来た。じきに季節は変わるだろう。

 緋花は心を躍らせた。このような、何かしらの変化を望む気持ちが持てていることが嬉しい。今は確かな希望がある。

 胸の前で祈るように手を組むと、深呼吸を一つしてから中庭の隅の方へと目を向けた。

 学校と呼ばれているここは、人間の子供らが集う場所。目にしているこの一角は、彼が普段から好んで佇んでいるお気に入りの場所。緋花は少年の残り香を嗅ぎ取って頬を緩ませた。

 彼なら、蒼樹ハルならば叶えてくれるに違いない。この気持ちを理解してくれるに違いない。

 彼女は心許ない気分のままそっと足を踏み出した。踏み込んだ芝生からムッとした空気に乗って草の青い匂いが立ち上ってくる。さらに進むと僅か数歩の歩みの最中にも様々な思いがこみ上げてきた。

 抱いているこの思いは、晦冥かいめいに落とされた者達の願いであり、大切な友人との約束でもある。緋花は改めて心に誓いを刻む。なんとしても彼女を救わねばならない。

「雨様を見つけた。彼は今、ここにいる」

 御霊集めの仙狸の足取りを追い、ついに黒の悲願に手を届かせた。黒鬼衆にとって、いや、緋花にとってそれは奇跡のような巡り合わせだった。

 緋花は、彼が日頃陣取っている場へと進み揺れる木漏れ日に目を落とした。木陰の涼に包まれる。耳の奥には童歌わらべうたが流れていた。

『――かごめかごめ 、籠の中の鳥は いついつ出やる、夜明けの晩に 、鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ』

 決意のままにギュッと口を結ぶ。緋花はサッと踵を返して校舎の中へと急いだ。


 時は正午を少し過ぎた頃。そこかしこで物音はするが周囲に人の気配は無かった。部活動とやらの為に集まっていた子供らの声は遠く、息苦しさを感じている通路には外部から届く蝉の声だけが騒がしい。閑散としている廊下はどこか無機的であり心を細くさせた。

 期待と不安がないまぜになり胸が苦しくなる。義務感が背中を押すが足取りは重く、気持ちだけを逸らせてしまう。 

 不意に立ちすくんだ緋花は、当代の十五年の人生を振り返った。

 ――いや違う、あの者達の歳月か。

 再び気を引き締め、顔を上げて正面を見据える。

 長かった、と思うのは中庭からここまで距離のことではない。

 彼女はこれまで見続けてきた非業の死を辿りながら歩みを進めた。

 もうすぐだ、ようやく会える。

 変化の術を得て僅か一月あまりではあるが、人の知識は申し分なく学んでいる。今のこの格好にも不備はないはず。

 そうして緋花は、戸惑いを抱いたまま歩き、ついに目当ての教室の入り口に立った。

 身なりを再確認したあと息を飲み入り口の戸に手を掛ける。

 レールの上を思いのほか軽快に戸が滑っていくと、通り道を見つけた風が一気に流れて緋花の髪を揺らした。

 ――バンッ! 

 勢い余った引き戸が終点で予期せぬ大きな音を立てた。

 慌てた拍子に「あっ」と声を漏らし、同時に長老にもらった眼鏡がずり落ちる。緋花は取り繕うようにして前髪を掻き上げ姿勢を正した。

 すっと息を吐いて心をおちつかせると耳が再び蝉の声を取り戻す。

 箱のような室内をぐるりと見回し見つける。窓側の一番後ろの座席に彼が座っていた。蒼樹ハルは机に突っ伏したまま居眠りをしていた。緋花が立てた音はかなり大きかったのだが、彼は気付かず眠りこけていた。

 余程の大物か、ただ鈍感なだけなのか。――はたまた、物の怪である緋花のことを全く意に介してはいないのか。

「あの……」

 辺りに誰もいないことを確かめて声を掛けると蒼樹ハルが呼びかけに反応してゆっくりと顔を上げる。だが、視点の定まらない彼の目は、緋花を見てから直ぐにまた閉じてしまった。

 緋花は軽く息をつき肩の力を抜いた。

 前のめりに意気込んでいた自分とはあまりに温度差のある相手の態度を見て少しガッカリしたのだが、内心ではどこか納得もしていた。 

「それはそうよね。私はあなたを見ていたけど、あなたは私のことなど知らないもの。それに、これは私の思いであって、あなたのもではないもの」

 緋花は密やかな声で打ち明けた。そのあと、かなりの勇気を振り絞ってここまで来ていたのだが、とハルの様子を見て苦く笑う。

 はたして声は届いたのか。すやすやと眠る様子からは、自分が認識されたのかどうかも分からない。それでも緋花の胸は高鳴っていた。自ずと苦笑を浮かべる。のっけから見事に肩すかしを食らって空転してしまうとは、なんと滑稽なことだろうか。喜び湧き上がる気持ちを持て余して思う。自分はいま、どんな顔をしているのだろうか。

「なんだろう……この子供の側にいると、とても心が安まるような気がする」

 幸福感に包まれながら暫く穏やかな寝姿を見つめた。彼は見知らぬ妖怪を側に寄せていながら微動だにしない。試しに少年の頬を突いてみたのだが、一向に目覚める気配がない。

 仕方なく通路を挟んだ隣の席に座って彼の寝顔を眺めた。

 それにしても気持ちよさそうに寝ている。

 希望を目の当たりにして緋花は笑んだ。これで念願が叶う。残された時間はそう多くは無いが慌てる必要はないだろう。

「ようやく、巡り会うことが出来た。蒼樹ハル……これで彼女を救うことができる」


 誰も居ない教室でひとり微睡みながら船を漕ぐ。

 貴重な夏休みは、もう僅か数日しか残されていない。思春期の夏に堪能すべき思い出を、未だ何一得られていない。なぜ、自分だけがこのような境遇に置かれているのか……この仕打ちは余りに酷いではないか。

 ハルは他の生徒に先んじて登校させられていた。

 この鬱屈した情況を生み出した原因は全て、あの呪いの事件にあった。黒鬼の一件において、強制的に時系列の改変を行ったことで自らも割を食ていった。ハルは期末試験に費やした時間の全てを失ってしまい、このように補習をさせられる羽目になっていた。

『ハル様、得るものがあれば、その反面に失うものがあるのです。何かを成そうとすれば必ず代償を払わねばならぬものなのです』

 事件の後、雲華うんか(神器の鏡)に諭された。

 大それたことをしでかしたうえのペナルティが、これくらいのことで済んでいることを喜ばなくてはならない、と、言葉の意味は分からないでもない。上手く言い含められてしまっていたがそれでも……、正直を言えば、納得は出来ていない。成そうとしたことは人助けでありハルは何も悪いことをしていない。それどころか、結末は満願成就とはならず、悲劇の渦中で失われた命を取り戻すことは出来なかった。

 終に願いは叶わず、これではとても割に合うとは言えない。

 今もなおハルの胸の中に残る喪失感。ハルは救えなかった少女の笑顔を思い出した。

「僕は、何を失い、何を手に入れたのだろうか」

 自分の失われた時間と得た結末の意味を考えれば空しい。

 独善が行き着く先には正解などない。これは、仙里に度々諭されたことであった。言わんとすることはもう理解しているつもりだ。それでも胸の内にこびりついた後悔は拭えない。少女の命を救いたかった。救いたいと強く願いながら救えなかった。

 報酬と対価がひどく不釣り合いに思える。

 確かに世のことわりにはそういう一面があるのかもしれない。一理あるのだろう。だが、しかし、誰かの幸福の裏側に必ず誰かが支払った代償があるのだとすれば、この世には、実はハッピーエンドの物語など存在しないのではないか。極端な話、この世界はひどく残念な仕組みで動いていると言えるのではないか。命を代償として支払わねば手に入れられない幸福など、自分にはとても許容出来ない。

 教室の片隅で、青空に浮かぶ入道雲を眺めた。

 与えられた課題を早々に片付け、時間を持て余したハルは、堂々巡りを繰り還しながら眠ってしまった。

 ふと目が開く。反射ともいえる身体の動きは自分の意図するところではない。近付いてくる何者かの気配を校舎の中に感じてハルは居眠りから目を覚ました。

 ――教師ではない。これは、人ではない。

 妖怪に対して鋭敏になった自身の感覚が疎ましい。

 来る事態が妖怪がらみならば、それはもう朗報ではない。ハルは一切関わり合いを持ちたくないと心を閉じ、机に突っ伏して寝たふりを決め込んだ。

 バタンッ! 戸が開くと同時に若い女の声を聞く。少しだけ興味をそそられた自身のさがが恨めしい。それにしても、随分と慌て者の妖怪だ。

「あの……」

 呼びかける声色は弱々しかった。まるで内気な少女のような……。

 鼓動は早まる、だが、ハルとて学習している。妖怪を見た目や仕草で測ってはいけない。以前、鬼がハルを喰うために女生徒に化けて近付いて来たことがあった。「本質を見極めろ」とは、再三にわたり仙里に注意されていたことでもある。ここはよくよく観察し相手の本性を見極めねばならない。

 ハルは、惚けた演技で目を開いた。……か、可愛い子だな。

 身なりに汚れはない。同じ学校の制服は、おろしたてのようにパリッとしていた。肩までで切り揃えられた髪には清潔感が漂う。分けられた前髪の間に見える広めのおでこが利発な雰囲気を醸し出す。特徴的だったのは丸眼鏡だった。

 眼鏡を外せば美少女の素顔が飛び出してくるに違いない。自分の目に狂いは、あろうはずがない!

 ――悪い癖が出ているな。

 性懲りも無く狸寝入りをしたまま胸をときめかせて妄想していた。

 頬をツンツンとつかれた。戯れに心を躍らせる。思わず飛び起きてしまいそうになった。

 この時、既に危機感は失せていた。これは新たな恋の予感に違いないとハルは身勝手な思いに耽った。

 少女が動きを止める。起きないハルに焦れることはない。ゆっくり動きハルの隣の席に座る少女。気配から察すれば、どうやら物静かにこちらを眺めている様子。

 このシチュエーションを逃してはならないと、あれやこれやを思い描く。そっと薄目を開けると、少女も机に伏せて目を閉じていた。

 その髪色、光の加減だろうか。ハルの意識の中に赤に近い朱色が飛び込む。

 ――またか。

 妖怪の、その髪色を見て奇縁を思うがそれでも警戒心は解いてしまっていた。

 相手からは敵意も害意も感じない。

 むしろ好意を向けられているのではないか。

 ハルは、この出会いを夏休みの最後に神様がくれたご褒美とした。

 相手に気付かれぬようゆっくりと息を整える。第一印象が重要であるとハルは企む。

 運命が定まったのは、意を決したハルが、少女に声を掛けようとして目を開いたときだった。見つめる少女の口から小さな声が漏れ出た。

「ようやく巡り会うことが出来た。蒼樹ハル……これで彼女を救うことができる」

 願い事を唱えるように出てきた言葉に思わずハルは身を固めた。

 ――いま、確かに「救うことができる」って言ったよな。

 この時、悪い予感がハルの心に重しを乗せた。

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