第5話 先触れ

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 ……凡そ、自分を自分たらしめているものについて考えてみても、確たるものは何も持っていなかった。

 確かにあの時は「僕は僕以外の何者でもない」と見得を切って挑んでいた。それでも今は、蒼樹あおきハルは何者なのかと自問してみても腑に落ちる答えなんて返らない。

 あれから……あの事件から半月あまりが過ぎ、夏休みも終盤に差し掛かった土曜日の夕暮れ、ハルは住居としている寺の縁側に腰掛け枯山水を眺めていた。

 建屋は西日を背負っておりハルは影の中から明るみを見ていた。臨む光景は、あたかも現状を顕しているようで心を切なくさせる。

 ――何をどうすんだよ、これ。

 ハルは手詰まりの人生に嘆息する。

 置かれた状況はお伽噺を地で行くようなもので掴み所がない。よもや、十六の歳で人生が詰まされるとは思いもしなかった。

 山盛りの怪奇を意に反して押しつけられてしまったならば、もう、人並みの人生を送ることは出来ない。拒めないとくれば、もう、何もする気にはならない。ハルは気抜けしたままそこに座り無為に時間を潰していた。

 また、溜め息をつく。

 安堵とも幻滅ともいえる虚ろな息だった。しあわせ色の斜陽さえ嫌うこころもち。ハルの目の前には白砂利が素直に夕焼けに染まり庭園の流れを橙色に変えていた。木々は枝葉を夕涼みの風に吹かせていた。やはり、朱に染まり、行く末を風にまかせるしかないのだろうか……。

 縁側の角柱に目が留まる。そこにしがみついて羽化した変わり者の抜け殻を眺めた。遠くでもなく近くでもない場所で茅蜩ひぐらしがカナカナ啼く。鳴き声に誘われ半透明の抜け殻から目を切り、ぼんやり山肌を眺めると脳裏にある日突然お仕着せられるように貼り付けられた名前が浮かんできた。

 ――雨の陰陽師。

 それは、遙か昔に大業を成した偉大なる術者。

 即座に首を振る。

 これ以上はもう、古びた名称に縛られるなどゴメンだと思う。

 が、しかし、実際は如何ともしがたくハルの未来は眉唾物の事象により拘束されている。

 深く溜め息をつく。

 もっと自由であって良いはず、なのに……自分は、どこで何を間違えたのか。

 ハルは、呪いの人形が引き起こした事件の記憶を思い直す。

 逝った少女の笑みを思い浮かべた。彼女は、消えゆく間際に感謝の言葉を残した。

 それでも、他に手立ては講じられなかったのかと、あれで良かったのかと自問してしまう。もう終わったことだと自身に言い聞かせても、思い出す度に悔いがハルの胸を締め付けた。

 あかね色に染まる夕空を見上げる。

 いくら物思いを重ねたところで結果は同じである。

 堂々巡りを繰り返して行き着けば、結論、開き直るしかなかった。

 黒鬼を巡る一連の事件は幸福な幕引きではなかったにせよ完結している。振り返ってもあれ以上の結果はないと思えるのならば、踏ん切りを付けてもよい。忘れて良いのだ。

 ――高校生になって、普通に恋して、普通に遊んで。

 ハルは数ヶ月前の自分を懐かしく振り返った。

 思えば、この春に入学したての頃は咲き誇る花のように盛っていた。それなのに今は、しぼんだゴム風船のように縮こまっている。萎える気分はどうしようもなく、手つかずの宿題に焦りも湧いてこない。なにも高望みしていたわけじゃないのに、それが何で、こうなったのだ。

「……仙里さま」

 彼女の名前を口ずさむと、不意に強い風が通り抜け前髪を揺らした。蝉の抜け殻がポトリと落ちた。

「ああ……」

 諦め色の声と同時にハルの肩も首もかくりと落ちる。

 疾風の如く目の前を駆け抜けていった人影が網膜に残っていた。

 それは赤かった。

 次いで爆音を聞くと少し離れた場所で土煙がたった。

 ハルは半ば呆れながらゆっくりと首を回した。

 先程までそこに鎮座していた大型の石灯籠が跡形もなく消し飛んでいた。

「その程度でござりますか。酒呑しゅてんの血が泣いておりますぞ」

「うるさい! あたしはまだ本気を出してないんだから」 

 声を掛け合う二つの影。

 袈裟を纏った赤鬼と鬼面を付けた巫女が宙を舞った。

 巫女の手に広げられた呪符が空を走る。放たれた雷が赤鬼を襲う。

 受けた赤鬼はニヤリと笑うと、突き出した掌底で雷撃を消し去った。

 不敵に微笑んだ巫女が間髪入れずに飛び込んでいく。

 踏み込んだ右足が地鳴りを響かせる。突き出した拳が唸りを上げる。

 赤鬼は、巫女の正拳を軽々と片手で受け止めた。

 赤鬼の掌と巫女の正拳の接点で互いの力が拮抗する。波紋を描いた力場が衝撃波を生み出し、やがて逃げ場を失った闘気は柱を成して天へと登った。

 連獅子を思わせる赤いたてがみ。揚々としながら息巻いている彼女の了見が見えない。何故ここにいるのか。ハルとの同棲を許した父親、鬼怒川きぬがわ家の当主は、いったい何を考えているのだろうか。愛娘が心配ではないのだろうか。

 赤鬼の坊主と鬼面の少女……。取り巻く奇怪な現実は、とことんまでハルを逃す気はないようである。否応なく引き戻される。平穏が恋しい。

「……仙里さま」

 また一度、彼女の名が口から漏れ出た。

 この夏、淡い気持ちを確たるものとした後にすぐ、彼女は行方をくらませた。その身軽さはまさに彼女の属性である猫の如し。恋心を置き去りにされたハルの気持ちは寄る辺を失っていた。

常人つねひとの 恋ふといふよりは 余りにて 我れは死ぬべく なりにたらずや」

 後ろから優しく語りかけられた声。淑やかな声色で謳われた和歌うた

 古文は苦手教科であったが、流麗な語調を持った言葉の羅列は不思議と背中に染み込んだ。

 和歌の意味は皆目分からずであったが、「恋」の一字や続く「我れは死ぬ」の語りが今の感傷的な心情と一致しているように思えた。

「古い和歌でござりますが」

 声の主はしっとりと語って後ろに座った。

 板の間の上に差し出された湯飲みに目を落とすと茶柱が立っていた。

 湯飲みを手に取り、ふう、と息を吹きかける。漣に負けじと茶柱は立っていた。

 なんだろう、少し嬉しい。

 轟音も怒声ももう耳には届いていない。見ない、聞こえない、無視をしたいものは無視できるのだ、と、心からその非日常を切り離した。 

 どこからともなく一匹の黒揚羽が迷い込んできた。

 騒々しい境内に臆することなく優雅に舞う蝶。その美しい蝶にハルは見惚れた。

 湯飲みの熱がじわりと掌に伝わって我に返る。山間にあるこの場所には残暑も届かない。それでも暑気はあるのだが暑いときに熱い茶もまたよし。爽やかに香り立つ湯飲みをすすれば清涼が心に染み入る。ハルは目の前の乱闘に相反する麗らかさを味わった。

「ありがとう、騒速そはや

 振り向くこともせず名を呼ぶ。茶を入れてくれた彼女に礼を言うが……いまはこれも毎度決まり切ったことのように言葉は返らなかった。

 彼女が黙する理由は……。その理由を考えたときにまた溜め息をつきたくなった。

「今のは、百人一首?」

「いいえ、これはそのような半端な歌集には入っておりませぬ」

「半端ねぇ」

大伴おおともの坂上さかのうえの郎女いらつめは、万葉集でもっとも歌が採られた歌人であり、恋歌を詠わせれば比肩する者無しといわれるほどの達人です。彼の者はその名が示すとおり大伴の縁者。大伴おおともの旅人たびとの異母妹であり大伴おおともの家持やかもちの叔母であった人です。そもそも大伴坂上郎女は――」

「あのさ、騒速、悪いのだけどその話の詳しいところはまた今度」

「……」

「騒速?」

「……」 

 意図的に名を呼んだのだが、やはり少し意地悪だっただろうか。

 騒速は押し黙っている。

 沈黙の理由は一つしかない。もちろん怒りではない。彼女はハルに要求を突きつけているのだ。その要求というものが語彙力に乏しい自分にとっては宿題を片付ける以上の無理難題となっている。このところハルを悩ませている要因のひとつとなっている。

 まったく、「紫陽」といい、彼女といい、何故そのように名前に拘るのか。「騒速」という名は、彼女が昔むかしから呼ばれ続けてきた名前である。

 名はアイデンティティを形成するもではないのか。ならば、己が真名まな(魂と結びついた真の名前)は歩んできた歴史と共に本人にとっては大切なものなのではないのか。それは彼女にとってもっとも馴染んでいる名前のはずである。それなのに何故か、良い名前を付けろと今更ながらに訴える。

「なればこその名付でけございますよ。雨様」

「……雨様か」

 彼女が呼んだこの「雨」という呼び名がハルの気分を殊更重くする。

 この「雨」という呼称が、あの事件が終わった後もこうしてハルを怪異の世界に縛り付け、安穏たる人の営みから遠ざけている。そのせいで恋もままならない。

「雨」はハルの恋路を阻む最も忌みするものである。

「何をブツブツと。それにままならぬとは異なことをおっしゃる。ハル様は既に仙狸殿を好いておられるではありませぬか」

 好いている、と、騒速に言われるが……。

 ハルは仙里せんりという名の仙狸センリに恋心を抱いているがしかし、それは思い描く恋と同じではない。

 片思いは意図するところではない。では両思いならばどうだろう。否だ。少し違う。もっとも、相思相愛については仙里の意志を確認していないので考えるまでもない。告白も出来ていないので論外であった。ハルの想いは事実上、まごうことなき片思いである。

「何が違うと?」

「だからさぁ、僕はね」

「ハル様は?」 

 聞かれて思い浮かべた。

「なるほど、ハル様は仙狸殿との接吻をご所望で。それに、目合まぐあい――」

「違うわ!」

 と否定しながら、空想には確かに違わない部分もあったことを自覚していた。だがそれは思春期のなせる純愛からはみ出した部分である。さておき、とどのつまり……自分の青春はデートをしたがっているのだと思っている。

「デート、でございますか。はて、デートとは……」

「そうやって、いちいち人の心の声を拾わないでくれるかい」 

 ハルは湯飲みをそっと傍らに置いた。

 衣擦れの音が耳に入ると騒速の衣装が目に浮かんだ。

 一見して外国人のような端正な顔立ちにそぐわない和装。しかも羽織る打ち掛けは何故か色合いが黒と白の虎柄。――かぶいているのか。見た目淑女でありながら。

 騒速も紫陽と同じで普段は人の形をしている。その正体は太刀。しかも神器であるという。紫陽と同じというならば騒速も意のままに衣装を替えることが出来るはずなのに、彼女は初見から今までずっと同じ着物を変えることが無かった。虎柄をよほど好んでいるのだろう。

「ハル様、もう一杯如何でしょう」

 飴色の板の上、ほっそりとした白い手が空いた湯飲みをむかえにきた。

 もう一杯、如何……なるほど、茶道で意味するところの催促か。

 顔を向けると、騒速の目は迷い込んできた黒揚羽を追っていた。

「どうかした?」

「いいえ、なんでもございません」

 柔和に笑む顔がハルを見る。伸ばした白い腕に金糸のような長髪がはらりと落ちた。騒速はゆるりと湯飲みを拾いながら、これもゆるりとした仕草で髪を掻き上げた。垂れ目に細いつり眉。彼女の黒曜石のような美しい眼がハルを見つめた。

「話を名付けに戻しますれば、村雨、いや紫陽にはあのように易々と名付けられましたのに、私はまだこれという名を授けられておりませぬ。これには合点が参りませぬ。私とて御身の一部、『雨の二刀』の一振りにござりますれば」

「名前ねぇ」

 出来れば彼女に素敵な名前を付けてあげたいとは思っている。日々考えてもいる。

 だがしかし国語は不得意教科であった。ネーミングに関してはセンスの欠片もない。それに……。これは紫陽の名付けの時にもそうであったのだが、騒速にしても簡単には首を縦に振ってくれなかった。試しに幾つか提案してみたもののその全てを却下されてしまえば打つ手もなかった。

「騒速」、その黒漆くろうるしのつるぎは伝説の神器にして雨の陰陽師に従っていた対の太刀の一振り。邪を前にして抜けば破邪の雷光を放ち、たちまちの内に敵を滅すると言われている。

 ちなみに騒速のいう「雨の二刀」とは、その呼称の示す通り二本の太刀を示している。その昔、超絶の力を示した伝説の陰陽師は二柱の神と二人の鬼を従え、二本の太刀を携えていた。伝説の妖刀「ムラサメ」と「ソハヤ」。二本の業物はおとぎ話にも登場する名物でもある。太刀である二人は雨の陰陽師の右腕と左腕といった存在でもあった。

「ハル様、良い名は浮かびましたか?」

「ソフィア、まだだ」

「ソフィア?」

「どうだろうか、外国の言葉で叡智や智慧を表す名前らしいよ」

 それは主観でしかないが、ソハヤとソフィアはどこか語呂が似ていると思う。それに外国人の名前の響は金髪美女の騒速には如何にもお似合いではないかと考えたのだが、その途端……。

 金髪美女は手に大刀を出現させると黒光りする刀身をクルリと回し、切っ先をハルの喉元に突きつけた。

 ――不味い、ちょっとおふざけが過ぎたか。

「そ、騒速さん」

「ハル様、もう少し真面目にやっていただけませんこと?」

 細いつり眉の下で垂れ目が線になる。口元は僅かに険を抱いた笑みを浮かべていた。

 彼女の本気を感じ取っていた。汗が首筋を流れた。束の間の沈黙……。

 切っ先の間近でハルの喉仏がゴクリと動いたその時だった。

「これはこれは。ハル殿、少し見ないうちに黒とも随分と昵懇の間柄に」 

 何の前触れもなく、ハルと騒速の悶着に割って入る見知った男の声。紫陽と騒速の生みの親といわれる付喪神だ。

「驟雨、お前にはこれが仲良しのしていることに見えるのかい?」

「黒の先触れとは、ほんに懐かしい光景でありますな。これも何百年ぶりか」

 分かっていたことだが彼は相変わらずであり二人の話は交わらない。  

「驟雨、お前はまた旅に出たと聞いているぞ」

「さてもまぁ、この様なところまで似てくるとは、雨の称号も伊達ではありませぬな。

「うるさい! 僕を雨と呼ぶな」

「あの頃も、先代雨殿は事あるごとに黒に刺されておりました。それでもまぁ案ずることはありませんよ。こやつは決して主を害したりはいたしませぬ。こやつなりに何かを感じているのでしょう。そしてこれも愛情表現なれば」

「何が愛情表現だよ。生みの親なんだろ、早くとめて……こ、こんな――あ、ガッ」

 文句を言い終わる前に、騒速の手にした太刀がハルの首を突き抜けた。――気が狂いそうになるほどの激痛が全身に走った。

「大事はありませんよ。チクッと痛むだけ。死ぬことはありません。そのうちに慣れてもきましょう。そうして慣れてくれば、先代のように愉しむことも出来るようになりますでしょう。ククク」

 どんなプレイだ。雨と騒速、何やら歪な愛の形を見たような気がする。無論だがその様な趣向は持たない。雨の陰陽師と騒速の関係性が理解出来なかった。

 大刀が首から引き抜かれた。見ると騒速はどこか上の空で茜空を見上げていた。

 それにしても解せない。神出鬼没であり、今は常のように全国津々浦々を放浪しているはずの驟雨が何故この場に現れたのか。

 そもそも、この平安絵巻から飛び出してきたような出で立ちの付喪神は一つ所に留まっていることがないと聞いている。あの事件のときも最後の始末も見ずに姿を消していた。

「驟雨殿、此度は如何成されましたか?」

 虚ろから戻った騒速が尋ねた。

「いやなに、ちと暇をつぶしにの」

 答えた驟雨がニヤリと笑う。

 ハルは、驟雨の何気ない言葉に嫌な予感しか抱けなかった。

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