逃げ場

ここでの生活は楽しい。何も考えなくてもいい。


春がいる。それだけで私は幸せだった。


経済的にも、多少の余裕ができたころ、ふと立ち寄った電気屋さんのテレビに衝撃的なニュースが流れていた。


「藤沢和義 死亡」


山で、変死体で見つかったらしい。


自殺か、殺しか、定かではないようだ。


悲しみの前に、安堵がやってきた。これで、完全に縁が切れた。


いろいろなことを済ませる必要があったが、今は、今を生きることで必死だった。


看護師を目指している時を少し思い出し、悲しくなる私もいたが、今はそのニュースから目をそらした。


3月26日。春の初めての誕生日。雪も溶け、桜が咲き始める。


ふと幸せだったころを思い出す。あのころとは、何もかもが違う。


「春、あなたがいればなんでもいい」


ぼそっと呟き、春の頬にキスをした。イチゴののったケーキを食べた。そして、箱についた赤いリボンで春の少ない髪の毛を結んだ。


春は、いつもよりよく笑った。そして、ぐっすり眠った。


「お誕生日おめでとう」


春の頭をそっと撫で、眠りにつこうとした時だった。



ドンドンドン、ドンドンドン。


古いアパートが倒れる勢いで、玄関の戸が叩かれた。


まさか。


心臓が飛び出るほど、高鳴り、何かの間違いであってくれと強く、強く願った。


そんなはかない思いは、届くことはなかった。


「藤沢さ~ん。逃げてもむだだよ~。言ったよね~。和義さんは残念だったけど、彼もだいぶ頑張ったよ~。あんたはまだ若いんだから、いくらでも稼げるし、そのガキ渡してくれればそれでいいよ~。」


春は、絶対に渡さない。でも、なんで。なんで。ここがわかったの。


そんなことを考えている場合じゃない。


春がぐずり始めた。


「ダメ。お願い。春。泣かないで。」


春の口を強く強く抑えながら、ささやいた。


ドンドンドン。戸を叩く音は鳴りやまない。


その時、遠くから、ウーウーとパトカーのサイレンが聞こえた。


誰か。ありがとう。ありがとう。助かった。


しばらくして、戸を叩く音もなくなった。


「春。よく頑張ったね。怖かったね。偉いね。春がいれば何でも乗り越えられちゃうね。春がいればなんでもいいの。」


頬に頬を合わせ、安心したのだろうか。


私は、夢へと旅立った。


長い長い眠りについた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る