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 その日の夕方。


 物理教員室に南野先生がやってきた。生徒達が入力したデータを集め、WordファイルにまとめてUSBメモリに入れて持ってきてくれた。


「確かに、最近夜遅くまで書斎で書き物してて、何書いてるんだろうなあ、と思ってたんですけどね……本当に、祖父がご迷惑をおかけして……すみません」


 申し訳なさそうな顔で、南野先生が言う。


「いや、もうそれはいいですよ」俺は笑って応える。


 聞けば、彼女の父親はいわゆる「マスオさん」で、彼女の母方の家族と同居しているのだ、という。それで彼女と一ノ瀬さんは名字が違うのだ。


「安井先生」南野先生が真顔になる。「とりあえず祖父の原稿のレイアウトだけ、すぐ確認してもらえませんか。私、このままこれを持って帰って、祖父に内容を確認させます。修正があったら私がその場で直します。それで校正したことにしませんか?」


 なんと。俺も全く同じことを考えていた。


「それ、これから僕が宮下先生のところに行って直接やろうとしていたことです。既にアポは取ってます。そして、先生に一ノ瀬さんの分をお願いしようと思ってました 」


「ふふふっ。さすがですね」南野先生が魅力的な笑顔を見せる。「あと少しですから、頑張りましょうね!」


 ええ。そりゃあもう、頑張りますとも!


---


 こうして俺は全ての原稿を校了させ、PDFの版下はんした(最終原稿)を作成し、ページ数を確定して印刷所に発注を行った。危なかったがギリギリ予算にも収まり、版下を入稿した俺は、抜け殻のようになってその後二日間寝込んだ。


 印刷所の校正が卒業式と重なり、俺は謝恩会にも出られず校正する羽目になった。だけど南野先生が差し入れを持ってきてくれた。


 そして、4月3日。


 とうとう「緑樹」が一万部納品された。印刷所がサービスで一冊ずつ封筒に詰めてくれたのは本当にありがたかった。後はそれに宛先のラベルを貼って発送するだけだ。もちろんそれも、南野先生とワープロ部のメンバーが全部手伝ってくれた。お礼にかこつけて南野先生をディナーに誘ったら、彼女は「もちろん喜んでご一緒しますが、絶対割り勘で!」と言って聞かなかった。


 そして今、俺の手元には、一冊の「緑樹」がある。


 開いて中身を読む気には、今さらなれなかった。読まなくても、ほぼ全ての内容は頭に入っている。たぶん世界中の誰よりも、だ。


 高校時代に部誌を作ったときと同じ充実感は味わえたが、それ以上に疲労感が強すぎる……もう二度とやりたくねえ……


 しかし。


「安井先生! やりましたね!」


 喜色満面の岡田校長だった。あのめんどくさがりが、わざわざ物理教員室までやってくるなんて。なんか少し嫌な予感がする。


「もうね、『緑樹』大好評ですよ! 特に宮下先生と一ノ瀬さんが大喜びでね! それで、どうせなら『緑樹』を、今後は年に一回発行してはどうかと……あれ、安井先生?」


 ……。


 俺の意識は、急速に遠のいていった……


 (了)

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