緑 樹

1

「安井先生は本を作った経験がありましたね?」


 県立緑が丘高校、校長室。


 現同窓会長である岡田校長のその一言が、その後数ヶ月にわたる俺の厳しく孤独な戦いの幕開けだった。


 新任で三年勤めた山奥の高校から異動し、今年四月から母校で教鞭を取っている俺は、ほぼ強制的に同窓会役員にされてしまった。OBの岡田校長が昨年赴任して以来、我が校では教職員の中で五十周年記念行事実行委員会が組まれてずっと活動していたらしいのだが、昨年いなかった俺は当然委員会には入っていない。しかし、九月に記念式典が終わったにもかかわらず、予算が余ったと言う理由で当初の予定になかった記念誌の発行が役員会で提案、了承され、その制作の仕事が、なんとこの俺に降りかかってきたのである。


 俺は高校時代、理系だったにもかかわらず文芸部に所属していた。もちろん書いていたのはSF小説だったが。文芸部は毎年部誌を発行していて、俺はその編集を担当したことがある。なので、確かに本を作った経験はある、の、だが……


 部誌はたかだか60ページほどで50冊程度しか発行されていない。しかし、今回の記念誌には原則的に各年度の卒業生から一人ずつ寄稿することになる。五十周年なので、ナイーブに考えればそれだけで50人。さらに、異動、退職された教職員からも寄稿を募る、という。それが20人くらい。合計して執筆者数は70人ほど。しかも各原稿のページ数には制限を付けないとのことだ。一人平均4ページ書いたとして、280ページ。沿革や名簿などを含めれば300ページは下らないだろう。結構分厚い冊子になりそうだ。


 さらに発行部数は、これもナイーブに計算すると、一学年の卒業生が平均200人として、掛ける50で10,000部。それだけの人数の目に触れるものになるのだ。恥ずかしいものは作れない。


 しかし。


 A4無線綴じオフセット印刷、300ページの10,000部で見積もった結果、予算上、印刷費を出すだけで精一杯だという。原稿回収や組版くみはん(ページ内に文章や図版をレイアウトすること)といった仕事には、一切金は出せない、と。


「……で、僕がそれをやらなきゃならない、ってことですね? タダ働きで」


 俺がしかめっ面でそう言うと、校長は苦笑する。


「しょうがないでしょう。公務員なんだから副業は禁止ですよ」


 いや、そういうことではなくて、ですね。


「寄稿される方は、市会議員や県会議員、市長経験者、地元企業の代表取締役もいらっしゃいます。そういう地元の有力者の皆様方と直接つながりができれば、今後安井先生にもいろいろメリットがおありじゃないでしょうか」


 ……。


 結局そういう、存在が不確定な、シュレーディンガーの猫みたいな報酬しかないわけですね……


 無言でうなだれ続ける俺を見ていた校長は、なだめるような声色で言う。


「大丈夫ですよ。もう寄稿される方はほとんど決まっていますし、執筆も了承されています。あとは原稿を集めて体裁を整えて、印刷所に渡すだけです。そんなに大変なことじゃありませんよ」


 これには俺も黙っていられなくなった。


「いや、だからその、『体裁を整える』って簡単におっしゃいますけどね、それがどんなに大変なことなのか、校長はお分かりですか?」


 校長は涼しい顔で応える。


「ほとんどの皆さんはワープロソフトで執筆されますからね。予めフォーマットみたいなものを作って配布し、それに従って書いてもらえば、元原稿の段階で既に『体裁』はある程度整うのではないですか?」


「……それじゃ、そういう統一フォーマットで書いてもらう、ってことでいいんですね?」


「ええ。商業誌のような凝ったレイアウトにする必要はありません」


 もう俺が引き受けたも同然と考えたのか、校長の笑顔が異様に輝いている。


「……」


 さて、どうしたものか。


 まず、校長が俺に話を持ってきたのは、他に引き受けられそうな人間にすべて断られたからだろう。そりゃ、タダ働きでこんな仕事を引き受けたい、などという人間はそうそういるはずがない。


 しかし、ということは、俺がここでこれを引き受ければ、彼に一つ貸しを作ることになるわけだ。彼も去年赴任したばかりでまだしばらくは我が校の校長でいるはず。俺だってまだ新卒4年目のペーペーだし、我が校でのキャリアは1年未満だ。ここで彼に貸しを作っておくのは、俺の立場から考えれば得策と言えなくもない。そして、おそらく俺がそう考えるだろう、ということまで見越して、彼は俺に話を持ってきたはずだ。狸め。


 だが、そのような思惑とは裏腹に、俺は高校時代に部誌を作っていた時の気持ちが心の中に蘇ってくるのを感じていた。確かに大変だったが、自分が作り上げたものが形になるということは、純粋に嬉しかった。完成した部誌を手に取った時のあの感動は忘れられない。またあの充実感を味わうことができるのか。


「……わかりました」


とうとう俺は言ってしまった。それが地獄への第一歩とも知らずに。


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