第18話

 ふわりと鼻に入ってくる草の香りに瞼をゆっくり開いていけば、目の前には地面がある。

「知らない間に寝てしまったのね」

 野宿等何年ぶりだろうと小百合は体を起こしながらフゥと一息ついた。

「あの頃は、寒くて怖くてお腹が減って。自分で死ぬ勇気は無くって、早く死なないかなってそんな事ばかり考えていたっけ」

 自分の何気ない一言が親友を苦しめていたと知ったのは彼女の葬式だった。罵倒され、式場から叩き出された小百合は悲しみよりも呆然とし、埃を払って立ち上がりその場を後にする。

 交差点で立ち止まった小百合は左を見てじっと佇んだ。そちらには自分の部屋が存在する建物がある。自分の両親が要るわけでもない自宅とは言い難いその建物。家族などというものは物心ついた時から縁がなかった。左に行けば酷く汚い世界への扉が待っている。小百合の足は式場からまっすぐと、一度も歩いたことの無い道を選んで進んでいった。

「親友と思っていたのはあたいだけ、そう思った。相談されることも喧嘩をすることもなく逝ってしまった。一言、嫌だといってくれればよかったのに、言わなきゃ伝わらない、それを教えてくれたのは彼女だったのに」

 本当は死ぬつもりだった。彼女にどう思われていたかは別にして、小百合は彼女が好きだったから後を追ってでも謝りたかった。コンビニに入ってカッターナイフを購入し、誰も来ない路地裏でそっと刃を手首につける。小刻みに震える手が手前に引かれれば薄く皮が切られてじんわり赤い血が刃に滲んだ。

「っぅ! 痛っ」

 そう小さく呟いた小百合の手からカッターナイフは離れ小さな音を立てて地面に落ちる。刃物はダメだと小百合が向かったのは自分が今いた路地裏を作り出しているビルの非常階段。一段一段、何かを考えているわけではなく上っていく。遥かかなたに地表が見える場所に立った小百合は視界に地上を映し、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 あと一歩、空中に足を踏み出せば地上に向かって真っ逆さま。分かっているが、小百合の足は動こうとしない。

「あの時のあたいの覚悟は小さくて、意気地も無かった。彼女のように死に向かっていく勇気も無く、ただ口だけで死を望むだけだった」

 死ぬことも出来ない、かといって今までの生活を送っていく気にもならず。ただ、小百合は目の前にある道を進み続けた。

 何処に行くという目的があるわけじゃない目に道が映っているから歩くだけ。どのくらい歩いたのか、体が許してくれと悲鳴を上げるので道端に座り込んでため息を吐く。何日もその場所に居続け、ようやく死ねると思ったその時、

「お前、すっごい汚いなぁ」

 そんな声が聞こえて見上げれば、そこに眉間に皺を寄せた光男が居た。光男の持っている鞄から良い匂いがして小百合の腹の虫が泣き始める。鳴り止むことの無い虫の声に堪え笑いをした光男は小百合の顎を掴んでその顔を眺めた。

「ふむ、元は悪くなさそうだ。なぁ、お前、俺と一緒に来ないか?」

「あたいに言っているの?」

「お前に言っているんじゃなかったら、一体俺は誰と話しているって事になるだろ? 仕事を与えて飯も食わせてやる。一所に落ち着かない渡り歩く仕事だが、こんな所で腰を下ろしている所を見れば、お前も決まって帰る場所はないんだろう?」

「ぅん、帰る場所なんてない」

「なら決まりだ。お前は俺と一緒に来い」

 強引に腕を引っ張って自分を連れて行く光男に、泥の中から救われたような気がした。

「まさか、詐欺師の手伝いだとは思わなかったけど」

 フフッと笑った小百合の頬に一筋涙がこぼれる。考えてみれば、酷いこともいわれたし、扱いも女だということを忘れているんじゃないかって位の酷さだったけれど、偽るということは無い。嘘をつくのが職業の癖に自分自身には一切の嘘を付くことは無かった。

「光男、あんたに会いたいよ。もう、こんな嘘ばかりの歪んだおかしな世界に一人は嫌だよ」

 顎を上げ、流れてくる涙を止めようとした小百合の目に噴水広場の傍で立つ光男の姿が映る。

「み、光男? 噴水広場って真下にあったの? ううん、違う。さっきまでは無かった。どうして?」

 陽炎のように揺れ動く噴水広場の出現に驚き、見下ろしたままで瞳を細めた。どうやら光男は誰かと話をしているようだったが、その視線の先に人影は無い。

「光男は一体何をしているの?」

 休んだおかげで少し回復した体を起こし、辺りを見回す。目には見えている噴水広場だが、そこへ至る道がみつからない。

「大丈夫、光男はそこにいるんだ。見失わなければ、大丈夫!」

 小百合は自分に言い聞かせるように叫び、瞳に光男を映したまま走り出した。

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