37話
私は再び青年に会うことはなく、美しい容姿を持って自らが幸せだと思える日々を過ごす。
この世界に私は美しい私として存在した。
私を手に入れたいと願う男達は沢山居て、私は微笑みながらその人々を見下ろす。
なんという幸福感と贅沢な気持ちなのだろう。
あの時、たった1つの思い出せもしないことの為に、この幸せを手放さなくて本当に良かったと私は思っていた。
もし、あの時たった1つの「そのこと」の為に契約書にサインしていなければ、そう思うと背筋が凍る。
幸福感に満たされた生活は数年続き、永遠にこの生活が続くのだと思っていた。
しかし、変化は徐々にではあったが私の周りで起こり始める。
今思えば、その変化は私に何かを訴えていたのかもしれない。
始めに気付いたのは私への贈り物が減りはじめたときだった。さらに、誘われての外出が少なくなる。
急激ではなく、少しずつ。
砂の山がその端から崩れていくかのような小さな変化。
ゆえに、幸せの中に居て、それが永遠だと思い込んでいるそのときの私には気付くことの出来ない変化だった。
そして気付いたときには、砂の山の頂点に立っていたはずの私は、何も無い平らな土地に立っている。
そう、私の周りから、私を欲する男達はいなくなっていた。当然のことながら私の周りに同性の誰かが居るはずもない。
たった一人になっていた。
さらに、鏡を覗き込んだ先に居るのは年齢以上に老けた自分。
つい最近まで、この鏡の中にいたのは年齢よりも数段若い、誰もがうらやむ美女だったのに、今はくたびれた単なる女が居るに過ぎない。
どうして、こんな事になってしまったのか。
ぼんやりと考えていた私の脳裏に、数十年ぶりにあの青年の言葉と顔が思い浮かんだ。
「大切なもの……。こうなる私と引き換えにした私の大切なもの」
私はたった一人きりになり、自らの全てを失って初めて、鏡屋のあのときの言葉とその人物を思い浮かべ、自分があの時失ってしまったのは一体なんだったんだろうと深く考える。
あの時、あの空間で鏡屋が見せたあの人。
今となってはぼんやりとも思い出せないあの男性。
「あの人と、由来する私の心がなくなったと鏡屋は言った。それは一体何?」
壁にもたれ、時計の秒針が時間の経過を知らせる中、どんなに考えてもそれが何か分からなかった。
それこそ情けない位にわからないのだ。
なくしてしまったはずの物を思い出そうとすること自体が間違いなのかもしれない。
けれど、本当に何もかもが私の周りからなくなってしまい、なんだかこの世界に小さく置いていかれ忘れられてしまったような、そんな存在に成り下がってしまった自分を思うと、何かに頼らなければこの場所に存在できない気がしていた。
ゆっくりと力が入らない足に何とか立つように命令して、私はベッドルームの隣にある大きな鏡の前まで行き、鏡に手をついて呟く。
「分らないわ、あの時貴方が持っていってしまったあの人は、誰で私のなんだったの。お願い、教えて……」
もう二度と会うことはない、彼の言葉の通り私の手が引っ張られる事も、鏡からあの嫌味な声がする事無く私は立ち尽くし、小さな笑いを口の端に浮かべ、頬には知らず知らずのうちに流れている涙があった。
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