35話
奈津紀の居なくなった奈津紀の空間を後にして、自分の店へと帰ってきた青年の手には、装飾は殆ど無いけれど、どの鏡よりも美しく光を反射して輝く、ガラスで作られたように透明に近い鏡が抱えられている。
自分の背中に開いていた、奈津紀の空間への出入り口を閉じた青年は大事そうにその鏡を目に付くカウンターに置いた。
「やっぱりいいね、思った通りの美しさだ」
そう呟いた青年の店のドアが開き、青年が振り返れば少し不機嫌な仮面屋がたっている。
「仮面屋の爺か。何の用?」
上機嫌の青年は仮面屋の態度など気にすることなく、先ほど手に入れた鏡に視線を戻して鼻歌を奏でた。
仮面屋はあきれるように鏡屋の態度を見つめて近づき、カウンターの鏡を瞳の端に映しながら溜息をつく。
「全く、貴方と言う人は……」
「はいはい、分かっているよ。言葉使いをどうにかしろってんでしょ、石屋の婆にも言われたからわかっているよ」
「私はあの方とは違います。今更、貴方に言葉使いを言った所でどうしようもないと分っていますよ。それは個人資質の問題であり、言ったところで貴方はその場しのぎに謝って直そうとはしない。いうだけ無駄なことを言ったりはしませんよ」
「……じゃ、何の用なのさ」
仮面屋は鏡屋が先ほど置いた、カウンターで美しく輝く鏡に自分の顔を映し込み、鏡越しに鏡屋を見て言った。
「この鏡、また貴方は謀って手に入れたんでしょう?」
仮面屋の指摘に青年は口の端をあげて微笑みながら、首をかしげ瞳を閉じる。
「何を言っているのか全然わかんないな」
「嘘おっしゃい。また人の心の隙間に漬け込んだのでしょう? 貴方は目的の物を手に入れる為の手段を選ばなさ過ぎる。我々の真の存在理由をちゃんと理解していますか?」
「理解しているつもりだよ。第一その手段って何さ、俺はちゃんと契約しているよ」
先ほど手に入れた奈津紀との契約書を、鏡と仮面屋の間にひらつかせ、仮面屋はそれを手に取り見つめてカウンターに置いた。
「私が知らないとでも? これは先ほど手に入れたものでしょう。契約をする前に数日間良い思いをさせて、その気分に酔いしれている所で貴方は契約をする。自分の理想とする幸せを手に入れている最中の人間は判断力を欠きます。それが今まで感じたことのない幸せなら尚更。幸せが手放されると思えばすがりたくなるものです。そうして、何よりも大切なものを貴方に手放してしまうんです。なんとも情けなく、なんとも姑息な手段だ。恥ずかしいとは思わないのですか?」
「本人がそれで満足しているんだ。何の問題もないだろ。それに、ちゃんと十字街の規約通りに後からであっても契約は成立させているだろ」
「だから真の理由を理解していないといっているんです。契約を取れればいいと言うものでは無い。知りませんよ、この十字街を追われる事になっても」
「そうなったらそうなった時さ」
乾いた笑いを返して来る鏡屋に、仮面屋は瞳を閉じてゆっくりと出口へ向かい、途中足を止めてわずかに鏡屋のほうに顔を向けて言った。
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