34話

「必要ないわね、だって私は契約するんですもの。気にならないといえば嘘になるけど、契約してしまえば私の中からなくなってしまう出来事を今聞いても同じだわ」

「へぇ、この短時間に賢くなったね」

 青年は両手をたたいて小馬鹿にしたように奈津紀に拍手を送る。

 一つ大きな息を吐いた奈津紀は、空欄に自分の名前を書きながら青年に視線を向けた。

「私、今になってようやく分かったことがあるわ」

「へぇ、何かな?」

「貴方はずるくて卑怯な嫌な奴だって事」

 奈津紀の言葉に青年は朱肉を出しながら、瞼を半分伏せるように奈津紀を眺めて「心外だな」と呟く。

「契約を忘れていたなんて絶対嘘だわ。契約させるために貴方はわざとお試し期間を作った、そうでしょ?」

「そんな事ないよ。本当に忘れていただけさ」

「それだけ私のことをお見通しの貴方だもの。この体を手に入れて私が手放すわけないことも分かっていたはずよ」

 微笑み返してくるだけの青年に、鼻息を一つ吹きかけるようにして拇印を押した奈津紀は、契約書を突き出した。

「これで契約成立、ね?」

「そうだね、契約成立。君はその容姿を得て、俺は君の大切なものを得た」

「無駄よ、そうやってまた私の心を乱そうって言うんでしょ。貴方に弄ばれるのはもう沢山。早くこの世界から私を帰して」

「えらく嫌われたもんだね。ま、言われなくても契約はしたし君にとっても俺にとってももう用はないから帰ってもらうけどね」

(全てお見通しと言うその態度が嫌いだわ)

 最後に、嫌さを全面に押し出して、力の限り睨みつけた奈津紀だったが、青年は気にする素振りも見せず微笑み、灰色の広い空間に向かって手を叩く。

 音が響き渡る中、部屋に無数の光が現れ、それは一箇所に集まって神々しい光を放ちその向こうには奈津紀の部屋が見えた。

「貴方にはこの灰色の世界がお似合いよ」

 光が集まっていく様を見ながら奈津紀は、ぽつりと嫌味のように青年にいったが、青年はその言葉を聞いて小さく噴出すように笑って「そうだね」と同意する。

 現れた全ての光が一つになったとき、青年は軽くお辞儀をしながら奈津紀を出口までエスコートした。

「ごきげんよう、もう二度と会うことは無いだろうけどね」

「会いたいとも思わないから丁度いいわ」

「本当に嫌われちゃったねぇ。そうだ、最後に一つ言っておかなきゃ」

「……まだ何かあるの」

「君は勘違いしているようだから言っておくけど、この世界は別に俺が住んでいる世界ってわけじゃないよ。言ったと思うけどね、この世界は鏡の中の世界、つまりは君の世界だ。それがどういうことか、考えたほうがいいけどきっと君は考えないだろうね」

 青年の言葉の最後を聞き取り、何を言っているのか再び眉間に皺を寄せて聞き返そうと奈津紀が後ろを振り返った時、青年が居たあの灰色の空間は無く、自分の部屋の大きな鏡の中から自身を見つめる奈津紀がいるだけだった。

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