33話

「そうだね、そういうことだよ。やっぱり君はそういう結論を出したね。まぁ、そうだろと思っていたけど」

「なんですって?」

「俺は君を試したんだ。君が変わってしまっているかどうかをね。変わっちゃった君がサインをしても意味がないんだよ。だから一瞬焦ったけど君は変わらない答えを出してくれてよかった」

「趣味が悪いわ。私は、変わったわよ」

「ま、そういうことにしておいてもいいよ。それじゃ、契約書にサインをもらおうかな。あぁ、そうそう、君は知りたくないだろうけど一応君が無くしてしまったものについて説明するね」

「必要ないわ。私はいらないって言う結論をだしたんだもの」

「そうなんだよね、俺も実際面倒だし、説明する必要ないと思うんだけどさ、この十字街で店をやっていく際の条件みたいなもんでね、説明をせずに契約しちゃうと俺がこの十字街から追い出されちゃうんだ」

「だったら教えてくれればよかったのに。やっぱり面白がってたんじゃない」

「人生には楽しみが必要だからね」

 微笑を浮かべた青年は、右腕を地面と水平に自分の体の横に差し出して指を1つ鳴らした。すると、地面から丁度上半身が映る位の楕円形の鏡が一枚現れて空中を漂う。

「君がこの契約書にサインをした時点で完全になくしてしまうものは、この鏡に現れる人物と、その人物に由来する君の心」

 青年は顎で促すように奈津紀に鏡を見るようにいい、奈津紀は仕方なく視線を青年から現れた楕円形の鏡に向けた。

 鏡の中には、陽炎が揺らめくように表面に波紋が立ち、灰色の部屋を映していた鏡は徐々に色づき始める。

 知ってしまったところでどうにかなるものでもないし、自分はこの容姿を手放す気はない。

 先ほどまでおちょくるように教えてくれなかったくせに、と青年の意地悪さに改めて苛立ちを感じながら鏡が人物をあらわすのを待った。

 わざとじゃないかと思うほどにその人物が映されるのがゆっくりで、溜息をついて視線を契約書に移し「もういいわ」と奈津紀が言おうとした瞬間、青年が「現れたね」といい今一度鏡に視線を戻した。

 鏡に映った人物をみて奈津紀は思わず声を上げる。

「この人は……」

 鏡に映し出されたのは以前、電車で奈津紀を痴漢から助けてくれた彼だったのだ。

「私が契約でなくすのは彼のことなの」

「さっきそういったじゃないか。君はその容姿を手に入れることで彼と彼に由来する君の心をなくすって」

 鏡に映った彼を見て助けてくれたときのことは思い出せても、奈津紀はそれ以外のことは思い出せない。

「契約してないけど、私、彼の事思い出せないわ」

「当たり前でしょ、君がその姿を手に入れたのは今じゃないもの。その姿と引き換えに俺はもらったんだから思い出せなくて当然」

「でも、私はずっと彼を知っている感じがしていたわ」

「契約してないんだからそれも当然。契約すれば完全に君の中から彼に関する事柄は全て消え去るよ。さ、これで契約時のやらなきゃならないことは終わった。サインしていいよ」

 青年はそういって、地面と平行に突き出していた腕を下げ、それにあわせて彼を映していた鏡もゆっくり下がって、地面の中へと溶け込んでいってしまう。

「見せる、だけなのね」

「そのほかの説明が今の君に必要?」

 小さく首をかしげて聞いてくる青年の言葉に奈津紀は首を横に振った。

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