29話

「ここに名前を書いて拇印を押してくれるだけでこの契約は成立。難しくないだろ?」

 奈津紀は渡されたペンを手に持ち、自分の名前を空欄に書き込もうとして手を止めた。

 名前を書いて拇印を押す、確かに難しくはない。

「そうね、言う通り難しくは無いけど、これにサインすることによって起こる交換条件は何?」

「へぇ、すごいね。姿が変われば頭も良くなっちゃうのかな」

「馬鹿にしているの?」

「まさか、褒めているんだよ。だって前の君だったら、きっとそんな事気にせずに舞い上がったままサインして、美しい体を手に入れちゃっていたはずでしょ」

 馬鹿にしていないといいながらもその笑いはどこか嘲るようで、青年の態度に苛立ちながらも青年が交換条件を言い出すのを待った。

 しかし青年の口からその条件は出てこない。

 ただサインを早くしてしまえという言葉だけが投げかけられ、奈津紀は青年を睨みつけた。

「いい加減にして、交換条件があるんでしょ。その説明をせずにサインさせようというの」

「まぁ、そうだね」

「何よそれ」

「だって君は既にその体を手に入れいるじゃないか。しかもさっき意思確認したら手放す気はないって言った。それがどう言う事か分からないはずはないだろう」

「もう契約したも同じって言うことなのね。私が体を手に入れているように交換条件となっているものは既に貴方が手にしている」

「ご名答。その通りだよ」

「一体私は何を貴方に取られたって言うの」

「さぁね、たとえその交換条件を君に言っても君はその体を捨てる事はしないだろ。言っても同じ、知っても同じ。実際その体になって数ヶ月、取られてしまった『ソレ』がなくても君が困ることはなかったはずだ。つまり君にとって、俺がいただいたものは『いらないもの』なんだよ」

 青年の言葉に奈津紀は黙り込んでしまった。

 確かに、自分はもうあの以前の姿に戻るつもりはさらさら無い。だから、知る必要が無いと言われればその通りだと思う。

 しかし、自分の中にあった何かが無くなったと知るとそれが何だったのか知りたいと思うのが人。

 青年が指を鳴らして自分の無数の影を消し去ったことで、青年とたった二人の静かな空間となり、奈津紀はその中でペンを握ったまま考え込む。

(私は一体何をなくしたのかしら?)

 どんなに考えても皆目見当がつかない。

 得たものやいらないと思ったものは沢山あるが、なくしたものといわれても思い当たらなかった。

 青年に言われることで気になってしまった事柄に集中する奈津紀に青年は机を指でたたいて笑顔を向ける。

「どうせ考えたって君には分からないよ。サイン、しないとこの体は返してもらう」

 青年の笑顔はとても挑戦的。

 確かにどんなに考えてもまったくわからないが、そのように言われれば腹が立つ。

 奈津紀は苛立ちと同時に青年の顔が満足している笑顔をしているように見え、自分のなくしたものはとても大切なものだったのではないかと不安になった。

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