20話

 目覚ましが鳴り響いて奈津紀は目を覚ます。

 起き上がって真っ先に、奈津紀は小さな洗面の上にある、小さな鏡に顔を映しこんだ。そこには変わらず美しい自分が居て少しほっとする。

 もしかすると昨日のことは夢であるかもしれない、夢じゃなくてもたった一日のはかない魔法だったかもしれない。

 そんな不安がどこかにあって、急いで鏡を見たのだ。

 安心した奈津紀は着替えをしながら自分の体を確かめ、その美しさに満足気な笑みを浮かべる。

「そうだわ今日は、誘いを断わって不動産屋さんに行かないと」

 そう呟いて奈津紀は自分が何気なくいった言葉に思わずふっと息を吐いて笑った。

 「誘いを断わって」、などと誘いがあること前提となっている自分に笑ったのだ。

「やっぱり人間は容姿なのよ。見た目が重要、中身なんていっているのはただの偽善者、負け惜しみだわ」

 自分の言動に少し優越感を覚えながら、さっそうと顔を上げて自信に満ち溢れるような足取りで家を出る。

 同じ会社までの道、同じ電車、同じ風景、何も変わっていない。

 変わったことと言えば自分の容姿だけ、なのに全てが輝いて見えた。

 背中を丸めて小さく、俯いたまま、全ての視線に怯えて歩いていた奈津紀など何処にも居ない。自分を見つめる視線が心地良いとすら思えていた。

 満員の電車の中でも自分の容姿の違いを感じることになる。

 容姿が劣っている頃は小さく身をかがめて隅っこに居れば、何かしらの気配を発しているのか男性とわずかな隙間が出来ていた。

 ゆえに混雑をしていても多少の身動きが出来たが、今日は違った。

 わざわざとでも言おうか、体のいたるところに男性の体がぴたりとくっついている。少し斜めに見上げれば自分を囲む男性と目が合った。

(男って本当に単純で馬鹿ね)

 自分と体をくっつけているだけで、興奮したような視線を向けてくる男にあきれながらそう思っていた奈津紀だったが、次の瞬間びくりと体を揺らす。

 体が触れ合っているだけではなく、確実に自分の体を這っている何かがあったからだった。一つは胸のふくらみを確かめ、一つは下半身の柔らかさを確かめている。

 以前は当然のことながらこのような行為に出会うことなどなく、どんなものだろう? と考えたりした事もあった。

 しかし、実際自分の身にふりかかってみれば怖さしかない。頭上から聞こえてくるのは、妙に興奮している男の荒い息遣い。

 四方を壁でふさがれているように身動きがとれない奈津紀は、自分の体を勝手に確かめる男の手にされるがままとなっていた。

 男性に体を触られた事もなければ付き合ったこともない、ましてやこの状況で対処法など思いつくはずがない。

 男と言うものを分かったつもりで優越感の中に居たが、こういうときの経験値は全くなく、衣服の中に侵入してこようとする手を、狭い中でなんとか体をひねってどうにかしようとする事しか出来ずに居た。

 しかし、欲望に満ちた男の手はただ体をひねっただけで回避することは出来ず、指先が直接素肌に触れたのが分かる。

(嫌! 止めて!)

 恐怖心で体を固くしたとき、奈津紀の体を這いずり回っていた感覚が消え、四方を取り囲むように体に密着していた男の壁と自分の間に何かが割り込んできた。

 いまだ小さく震える奈津紀の周りにわずかな隙間が出来て、男の舌打ちが聞こえる。

「大丈夫?」

 奈津紀の耳に小さな声が聞こえて奈津紀は頷いた。

 ゆっくりと体の力を抜いて自分を覆うように辺りに隙間を作り出した背の高い男性を見る。そこには良かったと自分を見つめて微笑む顔があり、奈津紀はぼんやりとその顔を眺めた。

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