15話

「全く、何処で油を売っていたんだ。君の姿が見えないと気が気じゃないんだよ。まさか他の男と会っていたんじゃないだろうね」

 予想もしない言葉に驚きながら首を横に振ると、課長は咳払いを一つ。「仕事はきちんとしてきたようだし、席に戻って仕事をしなさい」

 今まで聞いたことなど無い言葉を、もっともらしい態度で言い放った。

 一体何がどうなっているのか分からない奈津紀は驚きのまま返事をし、自分の席に戻ろうとすれば、課長の手が腕をつかんでそれを静止した。

「今晩、こそ良いかな?」

 誰にも聞こえないように囁かれるその言葉に奈津紀は首をかしげて「今晩こそ? 何がですか」と聞き返す。

「またそうやって焦らすつもりか。そういう君も可愛いけどね、そうやってとぼけて男を翻弄させるのは感心しないよ。僕はね、君を自分のものにしておきたいんだよ。なのに一度として君は応えてくれた事が無い。今夜こそ来てくれるだろう?」

 全く持って身に覚えのない話をされ、奈津紀はどうしたものかと瞳を下に流せば、課長の生唾を飲み込むような興奮した息遣いが伝わってきた。

 混乱する奈津紀に課長は小さなメモ用紙を渡し、舐めるように奈津紀の体を見つめて離れる。

 わけのわからないまま自分の席に戻り、渡されたメモ用紙を見ればそこには高級ホテルの名前と部屋番号が書いてあった。

 課長には分からぬようにもらったメモ用紙を捨て、自分の仕事用のパソコンに向かいながら奈津紀は考える。

(今晩こそと言う事はきっと何度も誘ったと言う事よね。しかも、私はその誘いに乗っていない。当然よね、誰があんな課長の誘いに乗るって言うのよ。でも、あんなに私のことを毛嫌いしていた課長が私を誘うなんて)

 そう考えて奈津紀は今やっと、自分の容姿がこれだけ変わっているのにもかかわらず誰にもそれを指摘されないことに気付いた。

(あの鏡屋は容姿だけ、そういった。けれど容姿が変わることで私の周りも変化してしまったんだわ。私が今までの私とは正反対の自分を手に入れたことで、周りの人たちが私に対して持っていた態度も感情も全てが正反対になってしまった)

 奈津紀自身の仕事の能力や中身が変わったわけではない、ただ見た目が変わっただけであるのに、奈津紀を取り巻く人間環境は大きく変わってしまったのだ。

 ゴミ箱に放り入れたぐしゃぐしゃになっている課長からのメモ用紙を見つめて奈津紀は口元に小さな笑みを浮かべる。

(あんなに私にブスだの汚いだの言っていた課長が私を誘った。中の私は変わっていないのに、あんな高級なホテルに誘うなんて。やっぱり人間は見た目なんだわ)

 奈津紀の心の中はとても明るく愉快で、沈みきった気持ちなど一つもなく、容姿が変わっただけなのに俯いて暗い雰囲気を放つ自分はいつの間にか居なくなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る