14話

「あ、すみません。大丈夫ですか?」

 奈津紀は重たく何かが右側に当たったのを感じ、自分に対して謝られる声に瞳を開ける。

 目の前には見慣れた大きな道路があり、視界の端には差し出されている手が見えた。

 辺りを見渡してみれば、あの不思議な空間は消え去り、自分の世界がそこにある。

 奈津紀は何故か歩道の真ん中にしりもちをついていて、先ほど視界の端に映りこんだ手の先には見知らぬ男性が1人、ほんの少し頬を染めながら大丈夫かと聞いてきていた。

「すみません、余所見をしていて貴女にぶつかってしまって」

 男性の言葉に、だから自分はしりもちをついているのかと理解した奈津紀は「平気です」と男性の手に自分の手を乗せて言ったが、その視界に入り込ん自らの手に釘付けになる。

 その手は地黒で節など目立たない程ぼてっとした自分でも嫌になる手ではなく、細く真っ白で美しい手だった。

(まさか、本当に? あれは夢じゃなかった?)

 自分を引き起こして立たせてくれた男性は、にこやかな笑顔で自分を見つめ、よろしかったらお詫びにお茶でもどうかと誘ってくる。

 今までどんな場所で転んでも誰一人として手を差し伸べてくれたことなどない。ましてこんな風にいきなり誘われるなんて生まれて初めての出来事。

 奈津紀は誘ってくる男性にお礼と断りを入れてその場を去り、近くにあったコンビニの手洗いに駆け込んだ。

 そこにある小さな鏡に自分を映して瞳を見開く。

 そこに居たのは紛れもなくあの3人目の自分。

「次に瞳を開けたとき、君は生まれ変わっているよ」

 最後に聞こえた青年の言葉が頭の中によみがえる。

「私、本当に変わったんだわ」

 鏡に顔を近づけて笑顔になれば鏡の自分も笑顔になった。

 確かにここに居るのは自分だが、今までの自分ではない自分がいることに湧き上がってくる嬉しさで涙が自然とこぼれてくる。

 下を向けばいつもは胸と同時に腹も見えていたが、今は形の良い胸だけがそこにある。地黒で黒豚と言われつづけた自分はもう居なかった。

「夢じゃなかった。私は生まれ変わったんだわ!」

 力強く、心のそこからの喜びを声にした奈津紀は鏡を見つめながら自分の頬に触れ、みずみずしい唇に指をやる。

 たったそれだけの仕草なのに、どこか誰かを誘惑しているような、そんな妖艶さをかもしだした。

 容姿が違う、それだけで同じ動作もすべてが美しく、とても艶やか。

 何よりいつもより体が軽やかで心地良い。小さな鏡から少しはなれて出来るだけ全身を映し様々なポーズをとる。

「素敵。鏡を見るのがこんなに楽しいなんてはじめて」

 どのくらい鏡を見ていたのか、制服のポケットに入れていた携帯電話がなったことで奈津紀は慌てて鏡の自分から視線をはずした。

 電話に出てみると、あの課長の「何処で何をしているんだ」という少々苛立った声が聞こえてくる。

(そうね、変わったのは容姿だけだもの。当然よね)

 課長の声に現実に引き戻された奈津紀は、電話なのにその場で頭を下げて謝り、名残惜しそうに鏡を見つめつつ急いで会社へと帰った。

 いつもはそんなでもない距離だが、余計な肉がないだけでこんなに軽やかに走ることが出来るのかと体の変化に驚き、会社に帰ってきた奈津紀は、すぐに課長の元へと向かい深く頭を下げる。

「遅くなってしまって申し訳ありませんでした」

 頭を下げる奈津紀はいつも通り「グズでブスは使えないな」と嫌な言葉が振ってくるのを覚悟した。

 早く帰ってきても、用事を完璧に済ませても聞こえてくるのはいつも同じ怒鳴り声。

 毎回のことで慣れてしまっているとはいえ、大勢の人の前で怒鳴られるのは気持ちのいいものではない。

 奈津紀の姿を見た課長はゆっくり立ち上がり、そっと奈津紀に近づいて肩に手を置き耳元で囁いた。

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