10話

 鏡を受け取った男は観音開きになっている蓋をゆっくりと開けて、三面鏡となったそれを奈津紀に向かって差し出す。

「喜怒哀楽、そんな四つの言葉だけでは括り切れないほど人は様々な表情をする。そしてそれを鏡に映し続けるんだ」

「いきなり何?」

「そしてやがて、鏡の中にはその時その場所に居たその者達が住み始める」

 青年の言葉を聴きながら差し出された三面鏡を見て奈津紀は言葉をなくす。

 本来なら鏡に映る自分は今ここに居るそのままの自分のはずであるのに、その三面鏡に映る奈津紀は全て違う表情を浮かべていた。

 左は笑い、正面は泣き、右は悲しみ、そしてそれを覗いている奈津紀自身は怒っている。

「君だって、生まれて今まで一度も鏡を見なかったことはない。だからこそこれだけたくさんの君がここに居る」

「私が鏡を見たとき、その時の私が今ここに居る彼女たちだというの」

「全てとは言えないね。だって、君は人よりもずっと鏡を見る回数が少なかったから当然ここにいる君の人数は他の人よりはずっと少ない」

「でもさっき……」

「だから、ここの彼女たち全員がそうだとは言ってないって事だよ。普通の人はねいろんな姿を鏡に映すものなんだ。それこそこの三面鏡のように。でも君は違う。いつでもほら、この無表情でありながら小さな苛立ちを見せているこの顔ばかり。それじゃつまらないじゃない? だからわざわざ今回はいろんな君を呼び出したのさ。鏡っていうのはね、どの場所にもつながり、どの時間にも繋がっているんだ。君が迎えた人生の様々な局面、今の君は選択肢がいくつもある中の一つの選択肢を選ぶことで出来上がった君だ。ではそれ以外の選択肢を選んだ他の君は一体どうなっただろうね」

「どうなったって、まさか」

「今回はその時君が選んだかもしれないという世界の君も居る。だから結構にぎやかになっているだろう?」

「そんなこと、信じると思っているの」

「やだな、すでに君は君の中の常識と言う範囲では決して想像することも出来ない世界に居るじゃないか。言ったろ? 鏡ってやつは何処にでも存在する。それこそ自然の中ですら水面という形で存在しているんだ。これくらいのこと俺にとっては常識であり当たり前の出来事さ」

 奈津紀にとって青年の言葉を理解するのはとても困難で、頭の中は到底現実とは思えない事実と、自らの常識が混乱し、複雑に絡み合って外れない状況になっていた。

 青年は、頭が揺さぶられ、めまいのように思考が回転しそうな奈津紀の様子を見透かすかのように言う。

「わかりやすく言おうか? 例えば、数年前のことだ。君が受けたテレビ局の就職試験の面接、この結果の選択肢は多くはない。受かるか落ちるかその2つの局面しかないんだ。そしてそのとき君はお手洗いに言ったよね、意識せず鏡に自らの姿を映したはずだ。そのとき、試験に落ちたのが今常識の中でもがいている君で、受かったのがあそこで椅子に座っているスーツ姿の君だ」

 青年が指差す方向を見てみれば、グレーのタイトなスーツに身をつつんだスタイルの良い、到底自分とは思えない自分が座って少し高飛車な視線を投げつけてきていた。

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