9話
「ここはね、貴女があるべきだった時間とそうなった貴女の場所なのよ。そして私は、貴女が通っていたかもしれない道程の途中に居た私」
「私があるべきだった?」
「ええ、ここは貴女の鏡の世界なんですもの」
自身の声は何故か優しく奈津紀の中に響き、自分を卑下し嘲って硬くなってしまっていた心を柔らかくしていくような気がしていた。
不思議となんだかこの世界が懐かしいという感情が湧き出てくる。
無数の光が反射して輝く世界には、多くの机と椅子が存在していたが、世界そのものは真っ白。
「ようこそ、貴女だけの世界へ」
そう言われ、周りを見渡せば先ほどまで誰も居なかったはずの椅子に色々な自分が腰掛け手を振っている。
沈んだ笑顔からこれでもかと明るい笑顔を見せるもの、無表情であり涙を流すもの、本当に様々な自分がそこにいて奈津紀は思わず後ずさった。
この場所、この光景に驚いたわけではなく、無数にいる自分の中にとても明るくにこやかに手を振る自分がいるのを見て、それが怖くて、逃げ出したい衝動に駆られてのこと。
(あれは、私じゃない)
ゆっくりと後ろに下がる背中に何かがぶつかり振り返る。
「また、逃げるの?」
背中にぴたりとくっついて、後ろから肩を両手でつかんで見下ろすのは青年。
「こんなの、ありえないもの」
「あぁ。そりゃそうだね」
言葉を肯定しておきながらも逃がしてくれることなく、青年は奈津紀の肩を持ったまま前へと歩き始め、奈津紀は押されて進んでいく。
無数にある椅子の中で唯一、誰も座って居ない椅子まで手を離すことなく奈津紀を連れてきた青年は、奈津紀にそこに座るように促した。
丁寧に椅子を勧めているようでそれは強制的。
(この場所に入ってきてしまった私には、この人に従う以外の選択肢が無いということなのね)
唇をわずかに噛み締めて諦めたように椅子に腰掛ける。
すると多方面から自分自身の笑い声が聞こえてきた。
(なんて嫌な声なの)
自分自身の笑い声に嫌悪感を抱き、息を一つ吐き出した奈津紀の様子を見逃すことなく青年は机に腰をおろして奈津紀に聞く。
「あれ、ずいぶん疲れた風な息を吐くね。どうかしたの?」
「どうかしたのって聞くほうがおかしいんじゃないですか? こんなこと、疲れないほうがおかしい」
「そう? 喜ぶ人も居るよ」
「嘘、居るはず無いわ」
「残念ながら居るんだよ。自分が好きで自分に囲まれた状況を喜ぶ人も居る。当然泣き叫んで収集つかなくなってこちらが疲れることもあるけどね。こういうの十人十色っていうんでしょ、本当に人間は面白いね」
楽しそうに笑う青年の笑顔は何故か奈津紀を無性に腹立せた。
別に自分を馬鹿にしているわけでは無いことは理解していたし、その微笑が自分に向けられて発せられたものでない事も分かっている。
しかし、「奈津紀は馬鹿だね」そういわれているような気がして仕方がなかったのだ。
奈津紀のにらみつけてくる瞳にやれやれといった風に肩をすぼめた青年は、先ほど大きな鏡を出したときと同じように指を鳴らし、その音を聞いた鏡の世界に居た一人の奈津紀が手に持った鏡を青年に渡した。
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