8話

 青年は表情を変えることなく奈津紀の背中に向かって言う。

「なかなか、鋭くて賢いね。そう、ここにいるのは君であって君ではないんだよ」

 青年の言葉に何を言っているのだろうと鏡に手を付いたまま、奈津紀は青年を見つめて首をかしげた。

「君はここに映っている自分を現在の自分だと思っているんだろ?」

「だって、これは鏡でしょ?」

「そうだね、これは鏡だ。でも、ただの鏡じゃない。ただの鏡であるならばここに俺も映ってないとおかしいでしょ。俺は幽霊でも幻でもない、ただの鏡ならちゃんと映る。実際、この鏡じゃない鏡には俺が映っていただろ」

「じゃぁ、これは一体何なの」

「これはね、現在から過去未来までを映し出す、君の人生と君の時間の鏡。つまり君だけの鏡だから君以外のものは何も映らないんだ」

「私の人生を?」

「そう。そして、この時間軸では無い君の人生をも映し出す鏡。すごいでしょ?」

「すごい? すごいのかしら……。ごめんなさい、私、貴方の言っている意味がわからないわ」

 奈津紀の頭の中は完全に混乱していた。

 眉間に皺を寄せながら一生懸命考えようとする奈津紀の姿を楽しむように青年の小さな笑い声が響く。

「うん、まぁ、すんなり理解するには難しいよね。そうだな、言葉で説明されて考えるより体験した方がずっと良く分ると思うけど」

「体験? 体験ってどういうこと?」

「鏡を見てごらん」

 言われるままに視線を青年から鏡に戻す。

 鏡の中の自分もこちらに向かって手をついていて、まるで、双子が手を取り合っているように見えた。しかし、奈津紀は鏡で自分の顔を見るのがとても嫌だと思い、その思いが変わることはない。

「やっぱり嫌だわ」

「そうね、私も嫌だわ」

 何処からとも無く聞こえた声は明らかに自分の声。

 そして目の前の鏡では自分の口がゆっくりと引き上げられ妖しげに瞳を細める。驚いた奈津紀は鏡についていた手を引っ込めようとするが、鏡の向こうの自分がそれをつかんで放さない。

「何、なんなの?」

「そうね、私はいつも常識の中にあって、夢の様な物語は嫌い。だからこんな現実受け入れられないわよね、驚いても無理はないわ」

 鏡の中の自分は楽しそうに笑っている。

 揺れ動く平面な鏡からは確かに立体的な手が出てきて奈津紀の手を掴んでいたが、鏡が割れて砕け散る気配は全く無かった。

「どうして鏡の中から」

「こんな事ありえない、理解できない。……でしょ?」

「当たり前だわ! 何なの」

「相変わらずね『私』。頭で理解しようと思っても無駄、この空間は今までの理念や概念は全く関係の無い世界で、とても非常識な場所なのよ」

 そんなことを言われて理解しろというほうが無理だと、奈津紀はつかまれた手をなんとか離そうともがき、この現実なのか夢なのか分からない世界から逃げようとしていた。

 しかし鏡の中の自分はもがく自分を大きく笑う。

「だから貴女は駄目なのよ。こっちへ来ればいいわ」

 そう言いながら、鏡の中自分は力強く手を引っ張った。

 水面に手を入れるような感覚で冷たく沈んで行く奈津紀。

 どんなに抵抗してもこれが自分の力なのかと思うほどに鏡の自分は力強く、決して手を振り払うことは出来ない。

 手の甲が鏡の中に引き込まれたそのときまで奈津紀の心の中には恐怖心しかなかったが、肩まで沈み込んだとき体中に渡ってくる妙な感覚に恐怖心が薄れていった

 水の中に体を沈めるような感じではあるが、水中に入り込むのではなく体がぬれている様子もない。どちらかといえば薄い水の膜を通り過ぎるような感覚。

 体のすべてが通り抜けた時、恐怖心などはすでになく、こうならなければならない、自分は鏡の中にいかなければならないのだという思いが強くなった。

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