5話

 すると、太腿で握りこぶしを作っていた奈津紀の手に青年の手が重ねられ、わずかに隙間を空けていた青年の左太腿が奈津紀の右太腿にぴたりとつく。

 突然の出来事に奈津紀は驚いて自分の右側を見つめ、声を出すことも出来ずに水面で息をする金魚のように口を開いたり閉じたりした。

 少しひんやりとした青年の体温を感じ、奈津紀は燃えるように熱くなっていく。「何しているんですか! 」と言ってしまえば終わりなのに、そんな言葉は一向に出てこない。

 不規則な息遣いをし、言葉の出てこないまま奈津紀は兎に角離れなければと椅子から立ち上がろうとする。

 しかし、離れることは許さないといわんばかりに奈津紀の手を握っていた青年は、奈津紀を自らに引き寄せた。

 一瞬、周りの景色が一回転して揺れ動き、ダンスをするようにその場で軽やかにまわされた奈津紀の体は向きを変え青年の腕の中にすっぽり収まる。

 背中に感じる青年の存在感。

 青年の腕の中に吸い込まれるように倒れこむ瞬間、奈津紀の瞳には青年が何かたくらむように笑った様に見えた。

 息遣いが左の肩越しに感じられ、逃がさないようにするように抱きかかえられた状態で奈津紀は自分の心臓の音が聞かれてしまうのではないかと気が気ではない。

「な、何を……」

 多少裏返った声で奈津紀は青年のほうを向くことなく、自らの胸の辺りで絡まっている腕に手を置いて少し震えながら言う。

 優しく、決して力をいれずにふんわりと包まれるように青年は奈津紀を抱きしめていたが、奈津紀がほんの少し抵抗するとその体を強く抱きしめ耳元でそっと囁いた。

「何しているか、分らないの?」

 その妖しげで澄んだ声は耳から体全体に響き渡り、奈津紀は自分の背中に何かが走っていくのを感じて身を縮める。

 「違う、そうじゃない」と言いたくても言葉を紡ぐことが出来ず、ただ首を横に振った。

「何? ちゃんと言ってくれないと俺にはわからないよ」

 しどろもどろでうろたえ、体をますます熱くする奈津紀をからかうように、青年は耳元で囁きよりいっそう体をくっつけてくる。

(しっかりしなさい、奈津紀。私はからかわれているのよ、そう、反応するから楽しまれているのよ)

 自分に言い聞かせるように奈津紀は瞳を閉じて、青年のことを感じないように必死で頭の考えに集中させていた。

(人があたふたする姿をそんな風に楽しむなんて最低な男よ)

 だが、どんなに言い聞かせても体は全くいうことを聞いてくれない。

 未だ心臓は早鐘をうち、体は熱くなっていく。

 奈津紀はどうすればいいのか分からなくなり顔を少しだけ上げた。

 そんな奈津紀の瞳に輝くものが映り込み、奈津紀はそちらに視線を移す。

 視線の先にあったのは小さな鏡。そこには青年に羽交い絞めにされて顔を真っ赤にしている不細工な自分が映りこんでいた。

(あぁ、私はどうしてこんなに不細工なのかしら……)

 恥ずかしさのあまり、瞳を閉じた奈津紀の頭の中に入社時に課長に言われた一言がよみがえった。

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