18話

 数ヶ月の入院の後、声以外の後遺症は全く無く俺は退院した。

 そして、俺は誰に何を告げることも無く姿を消すように大学をやめ、母親の兄である伯父さんの所に身を寄せ、毎日を送っている。

 入院している間中、嵐が尋ねてきては大学の授業内容とノートを残していった。

 それだけではなく、母親以上にやってきては花を換えたり食事を手伝ったり、自分がいなければ駄目だろうといわんばかりに世話をしていく。

 嵐は結局、気付けなかったのかと俺は嵐がやってくるたびに彼が哀れに見えて仕方が無かった。

 そんな嵐を見ながら日ごとに体が回復していく中で俺は自分自身が失ってしまったものが何なのかその全てを理解する。

 女に持って行かれた俺の五つの心。

 それが無いことで俺は冷静に自分自身を見つめるようになっている気がする。

 俺は一番が好きやった。

 認められる事に喜びを感じてたし、褒められるのが好きやった。

 誰にでもある感情やろうけど、俺は自分が凡人であるのにその感情が人一倍強くてどんな事でもどんな内容でも一番になるんや、俺を褒めてくれ、褒めろ! と他人に強要していた。

 己がそれほど優れていないのにやってたんや。あほらしい。

 そう、女の言う通り俺の中は「無限の欲望」と「ひねくれ歪んだ思い」が入り混じっていた。

「秀雄、そろそろ昼飯にするぞ」

 伯父さんの声に俺は作業の手を止め大きく手を振って、俺を呼んでくれる伯父さんの方へと向かう。

 田んぼのあぜ道に広げられたゴザの上には昔懐かしい大きなやかんと、弁当箱。

 弁当箱を開ければ、素朴な白いおにぎりにたくあん、卵焼きが入っている。

「さぁ、しっかり食べんさい」

 そう言って、やかんからお茶を注いで手渡してくれる伯母さんに両手で合唱して体全体でお礼を現せば、伯母さんは笑顔で応えてくれた。

 今では人の表情や笑顔を疑いなく素直に受け取れる。

 同じように、言葉がなくなってからの俺は自分の気持ちを体で示ようになり、その分、言葉を発していた時よりも素直に全てが表現できるようになった。

「こっちに来て大分と経ったなぁ、農作業にも慣れたか?」

 伯父さんの言葉に俺は照れるように笑って首を横に振る。

「なんじゃ、まだ慣れんのか」

「そりゃそうじゃろ、今までお勉強しかしてこんかったんじゃもん。それでも、大分体力はついたでな」

「そうじゃの。秀雄を預かってくれって言われた時はどうなる事かと思ったが……」

 退院が近づいた時、母から俺は伯父さんの所に預ける事にしたからと突然言われ、俺はその決定に黙って頷いた。

 教育一筋の母にしてみれば、恐らく今回の事は汚点に違いない。

 兄弟の中でも出来の悪い俺が益々出来が悪くなったんだからどうされようと仕様が無いと理解し、なによりその申し出は俺にとっても都合が良く、素直に受け入れて伯父さんの元へとやってきた。

 正月に会うか会わないかの甥を急に任されるだけでも迷惑なのに、そのうえ言葉での意思疎通が難しいのだから伯父さんにとってはいい迷惑やったに違いない。

 こちらに来てから、伯父さんには怒鳴られ続けていた。

 昔の俺なら当然不満の言葉を吐き出していたはずや。

 でも、今は不思議と素直にその言葉に頷ける。ただ怒鳴られるだけやない、そこに愛情を感じることが出来るから。

 どうなる事かと思った、そういった伯父さんは申し訳なさそうに俯く俺の肩を力強く叩いて言った。

「お前が来てくれてよかったで。俺等は子供が居らんけん、お前が息子じゃ。これからもここでずっと居ろ。な?」

 ずっと、迷惑をかけていると思っていた。

 でも伯父さんたちの態度には愛情を感じていたから出来ればここにずっとおいてくれるとええなと思っていた。

 そんな俺の気持ちを分かっているかのようにかけられた思いもかけぬ言葉に驚いて伯父さんの顔を見た後、伯母さんの顔も見る。

 二人ともこれでもかと言う程の笑顔を俺に向け頷いた。

 自然と涙が頬をつたう。

 もう一生声が出ない、そういわれた時にすら出なかった涙が溢れてとまらなかった。そして、俺は自分がまだこうして嬉しさの為に泣くことができたんやと流れる涙をぬぐいながら思う。

 俺の涙に、伯父さんは慌てて、伯母さんはタオルを差し出して俺の涙をふきながら抱きしめてくれる。

 その温かさに俺はふんわりと心の中で、女に奪われもう何一つ残っていないと思っていた心の中で、一つの感情が大きく鼓動していくのを感じた。

 全てがなくなったわけやない、俺は今こうして生きている。

 涙をふいて、伯父さんと伯母さんに笑顔で応えて深々と頭を下げる。

 女が与えた俺への挑戦状。

 改めて俺はその挑戦状を受け取ったような気がした。

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