10話
(それは本心ではないでしょう?)
突然頭の中で囁きかけてきた声に思考が停止し、命令していた笑顔もその顔からなくなって呆然とする。
鈴の様子に母親が顔を覗き込むようにして声を掛ければ、鈴は再び笑顔を口の端に浮かべ首を左右に振った。
「体調悪くてぼうっとしていただけ。うん、仕事だもんね、しかたないよ。私は大丈夫だから」
(本当に?)
頭の中の声は鈴の言葉を窺うように、そして嘲る様に聞いてくる。
(しかたが無いのよ。私は本当にわかっているわ)
頭の声に答えながら自分にもう一度謝ってくる母親にも大丈夫と何度も答える。
すると、頭の中心を揺らすかのように先ほどまで囁いていた声が大きな叫び声を上げた。
(嘘吐き! 鈴は嘘吐きだわ!)
納得しようとしている鈴の頭の中で繰り返しその声は「嘘吐き」と木霊のように響かせる。
自分を嘘吐き呼ばわりするその声は、鈴の思考を乗っ取る様に廻って、鈴は自分を納得させるのではなくその声に向かって叫ぶ。
(もう止めて! 嘘じゃないわ! そうよ、嘘なんかじゃ、ない)
そう否定していた鈴は、次第に「嘘」という言葉自身に侵食されていくように否定の叫びが小さくなっていった。
鈴が声の叫びに引きずり込まれていく中、目の前の母親には大丈夫だと言っている鈴だけが映り込む。
「そう、良かったわ。鈴なら分かってくれると思っていた」
鈴の大丈夫という言葉をそのままの意味で捉え、鵜呑みにした母親は安堵したように笑顔を見せた。
「ねぇ、鈴。今回の埋め合わせというわけじゃないけれど、その次の土曜日こそちゃんとお休みを取るから母さんとお出かけしましょう」
笑顔の中、母親はそういって取り繕ったが、「今度こそ絶対に約束するわ」という言葉を口にしようと鈴の顔を見た母親は言葉を飲み込んだ。
「鈴?」
娘の様子がおかしいと、その時はじめて気が付いた母親は娘の名前の最後に疑問符をつけて首を傾げた。
そんな母親の声を聞きながら、鈴はぼんやりと視界に母親を映り込ませ、煩すぎた声に放心してしまったのか何も考えることが出来ない。
そして、鈴ではない鈴が口を動かした。
「えぇ、分っている。ちゃんと理解しているわ。お母さんは私より仕事が一番なんだって事ぐらい理解しているのよ。それにどうせ今約束したってまた仕事で駄目になることもちゃんとわかって居るし、その時も同じ言い訳をするんだって理解しているわ」
今までにない鈴の態度に母親は驚き、瞳を見開いて鈴を見つめれば、鈴の瞳はとても冷ややかで蔑んでいるようにも見える。
「どうしたの、鈴。そんな言い方。母さんは別に仕事が一番だなんて!」
「何か、違ったかしら?」
驚きと興奮の声を上げる母親に対して、鈴の声は冷たく響き、鈴の腕をつかんできた母親の手を振り払う。
いったい何がどうなってしまったのか、どうしたらいいか分からないと言った表情をしている母親の姿を見る事無く、自分の部屋へと戻りドアを閉めた。
ドアの閉まる音と共に鈴は自分自身の行動に冷や汗を流す。
どうしてあんなことを言ったのか、どうして自分はあんな事を言え、あんな態度をとったのかと自問自答する。巡る思考の中で再び声が聞こえた。
「別にいいじゃない。だって、鈴がずっと言いたかったことでしょ。我慢していたことを私が態々やってあげたのよ」
腕を組み偉そうに自分の体を勝手に動かし、冷ややかで自分の声であるのに自分とは思えない言葉を吐いてくる不思議な存在に、すぐさま鈴は力強く首を横に振る。
「あら、違うっていうの? 絶対に違うと断言できる?」
(断言)
「そう、はっきりと言えるの?」
鈴のような声を持つそれはまるで鈴自身を試しているかの様に言い、態度は何処か馬鹿にしている様だった。
そんな声に鈴は何も言い返せずにいた。「言いたくなかった」「思ってない」そう断言しようと思っても言葉が喉奥に詰まってしまって口元にはやってこない。どうして言葉が出ないのか、眉間に皺を寄せて何度も言葉を吐き出そうと頑張っている鈴に声が言う。
「今、嘘は言葉になんてならないわよ。喋りたければ本当の事を言うのね」
馬鹿にしたように笑いながら言う声に鈴は唇を噛みしめた。鈴には声の言うことは正しく聞こえ、正しいと思ってしまっている以上反論することなんてできないのだと思い知る。
そう、言いたくなかった、思ってないなんて自分の本心ではない、それは鈴が誰よりもよく分かっていた。
いつだって本当の言葉を飲み込んできた鈴。
鈴の本心は、口中のちょうど気管と食道が分かれる辺りに存在していて、あとは舌と口を動かしその場所から言葉という音を出すだけの状態だった。
でも、いつもそれは押し出されることなく、鼻から吸い込んだ空気と共に気管へと押し込められる。
鈴の本音はいつでも胸の中に仕舞い込まれていて、本当は苦しさと共に吐き出したいと思っていた。
「一度で良い。たった一度でいいから仕事よりも私を選んでよ! 出来ない約束なんてしないで!」
母親に対して何度そう叫びそうになっただろうか。
でも、現実の中にあって自分の為に苦労をしている母親を知っている鈴に、その言葉を吐き出す勇気は無かった。
母親と二人だけの生活になってから、鈴の「良い子」は加速して自らの意思でそれを演じるようになる。
初めこそ、良い子でいれば褒めてもらえる、自分を見てもらえる、そんな気持ちで演じ続けていた。
しかし、鈴が成長していくほどに母親の中では「この子は良い子だから、放っておいても大丈夫」という解釈になってしまったようで、鈴が「良い子」を演じれば演じるほど、本当の鈴の気持ちと母親との間は思い切り腕を伸ばしても届かないほどに離れてしまった。
演じることに慣れてしまった鈴の偽りの姿を母親は本物だと思い込み、鈴は自分で作り出してしまった孤独の中に取り残されていく。
きっと、誰も私の事を見てくれてなどいない。
きっと、誰も私の本当の叫びを知らない。
そんな気持ちすら自らの奥底、演じるその姿の奥に潜ませるようになっていた。
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