9話

 母親と二人での夕食。

 いつもは自分が先に食べ、もうまもなく寝ようかという時に母親が帰ってくる。

 そっとゆっくり小さな声でただいまと言って帰ってくる母親の気配を感じながら眠りについていた。

 だからこのように一緒に何かをするという事はとても珍しくて、二人とも大したことでなくてもその時間を大事にする。

 今も母親は久しぶりの二人の時間を楽しむかのように饒舌で弾むように会話をしていた。しかし、鈴はいつものような感覚で母親と接することが出来ない。

 もちろんそれは鈴だけが違和感を覚えているからであって表面上は喜びを表すようにしている。

 ただ、何から何まで鈴にとっては二度目の出来事に、頭の隅でどういうことなのだろうと考え込んでしまっていた。

 表面に現れている笑顔とは裏腹に鈴の胸の中は言いようの無い不安が広がって、心臓が勢い良く血液を体中に送り出していた。

 そんな不安を悟られないようにと懸命に鈴はいつもの笑顔でいつもの会話の返事をしていたが、何故か目の前の母親の表情が曇っていく。

 その変化に気付いた鈴は、自分自身に起こっている妙な出来事に重なって、ばれてしまったのかと母親の表情に不安を抱いた。

 少し曇った母親の顔は昨日の記憶には無い顔。

 だが母親は何も言わず鈴もどうしたのかと聞くことなく夕食を終える。

 一緒に食事をしている時、母親は必ず「最近学校は? 」等と聞かれたら困る質問をしてきた。

 それにすら上手く答えたつもりだったし、母親はあまり勘の鋭いほうではない。

 いつもなら自分の部屋に行く鈴の後ろから「あまり頑張りすぎないようにね」や「頑張ってね」など声をかけてくる。

 しかし今日はそれは無く、ただ黙って鈴を見送った。鈴は部屋のドアを閉めて、勉強机に宿題を出しながら思わず呟く。

「不自然だったかしら? 上手くごまかせてなかったのかな?」

 小さく息を吐いたと同時に頭の中で自分の呟きに応える様に声が響いた。

「いいえ、アンタは上手くやっていた方だと思うわ。ただ少し上の空だったけどね」

 それは玄関先で聞いた自分自身の声にそっくりのもの。

 鈴は耳を両手でふさいで瞳を見開き辺りを見渡す。

 当然の事ながら誰かがいるわけではない。

 しかも耳をふさいでいるのにいまだ聞こえてくる。

 明らかに自分の頭の中で誰かが喋っている、その気味の悪さを感じながらゆっくり瞳を閉じて正体不明の声に向かって問いかける。

(誰? さっきからいったい誰なの?)

 鈴が聞くと同時に響き渡っていた声は静まり返り、まるでこちらの質問には答える必要はないと言わんばかり。

 幾度呼びかけても応えることは無く、無言のままだった。

 その声の態度に気味の悪さよりも苛立ちを覚え、一体誰なの、何なのよ! と鈴が叫びそうになった瞬間、母親の自分を呼ぶ声がし、鈴は我に返ったかのようにはっとして母親に返事をする。

 息苦しくて大きく深呼吸をした鈴は部屋を出てソファに座っている母親のところへ向かった。

 母親は鈴の姿を見て少々驚くように体を揺らし戸惑いながら言葉をかけてくる。

「鈴? なんだか怖い顔ね、どうしたの?」

 母親の言葉に鈴は機嫌の悪さが顔に出てしまっていたのかと慌てて体調が思わしくないからだと言ってごまかした。

「そう、薬は飲んだ? 気をつけてね」

「ちょっと疲れているだけだと思うから大丈夫。それより何?」

「うん、あのね、悪いのだけど。母さん明日の土曜日仕事が入っちゃったのよ」

 そう言う母親の言葉に鈴は「またか」と思いながら「そう」と笑顔で返事をする。

 この土曜日、久々に外で買い物をしたり食事をしたりしようと母親に誘われていた。

 授業参観などの学校行事、それ以外での母親との約束、それ等は何度となく約束されては反故にされてきている。

 それでも数回に一度は約束がかなうこともあり、毎回また駄目になるかもしれないと思いつつ、期待はいつでも心のどこかにあった。

 そして今回も同じように駄目かもしれないという気持ちとは裏腹に心のどこかでは久しぶりの買い物を楽しみにしていた。

 しかし、またしても期待は裏切られ、その理由は毎度おなじみの「仕事の為」だった。

(……いつもの事だ。そう、いつもの。それに色々ありすぎて忘れていたけど、そういえば昨日もそんな事言っていた)

 鈴は袖の中に隠した手を握りしめ、落胆を表情に出さぬように努める。

 約束を反故にしたことに対して鈴が母親を責めていたのは物事を分かっていない小さな頃の話。

 今では責めるなどという事は無くなり、笑顔で「仕方ないよ」と言えるようになった。

 何故なら母親が一生懸命に生活を守ってくれているのだと理解していたから。

 自分に向かって謝る母親の本当に申し訳ないというあの顔を見てしまうと責めることなどできるはずがない。

 ただ、頭でそう理解していても心の中にはどうしたって文句が浮かび上がってきてしまう。

 鈴はそんな自分が嫌で仕方がなかった。

 そして油断すれば口先から出てしまいそうな自分の我儘や文句を何度となく押し殺し飲み込んできた。

「本当に申し訳ないと思っているわ。私が言い出したのにこんなことになってしまって。でも、しようがないのよ。分ってくれるわよね? 鈴」

 黙り込んでしまった鈴に母親が眉尻を下げて言えば、鈴は口元に向かって笑えと命令する。にこやかな表情を浮かべたと確認してから「うん、大丈夫」と言葉を出した。

 心の中では(分っていた。そう、こうなることは予想できたことじゃない)と自分の中にある文句を納得させようと何度も呟く。

 いつもはそれで終わりの話だったが、今回は納得させようとする言葉とは別に、先ほどまで黙り込んでいた例の声が頭の中で響き渡った。

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