8話

 木戸に取り付けられた鐘が高らかな音を立てて来客を知らせる。

 仮面屋のカウンターの向こうにあるロッキングチェアに腰をおろし、「とある男の日常」という何処の誰が書いたかもしれない本を読んでいた店主は瞳だけを動かして扉を見た。

 黒いレースのストールを頭からかぶり、細い腰に手を置いて尻を左右に振りながら入ってきた女は小さく笑いながら店の中に入り、扉を開けたままカウンターへと歩いていく。

「仮面屋、あんたも悪い男だねぇ」

 薄い唇の両端を引き上げ、瞳を細めながら仮面屋の店主を眺めて言うのは十字街の石屋の店主。

 膝裏まで伸びる、まるでブラックオパールのように深い緑色の中に怪しげな輝きがある、濡れたような長い髪を揺らし、化粧っ気の無い顔の一重瞼で切れ長の瞳に笑いを浮かべた石屋の女店主は、勧められてもいないのに仮面屋の目の前にある使われていないカウンターに腰かけた。

 扉から入ってくる石屋の様子を仮面屋は瞳で追いかけていたが、目の前のカウンターに腰を下ろしたのを見ると音を立てて手元の本を閉じ、肺の奥からすべての空気を吐き出すような溜息を吐く。

「これはこれは、いらっしゃいませ。それにしても、来た早々に相変わらず失礼な事を言う方ですね。私のどこが悪い男だと言うのです」

 穏やかでにこやかな笑みを浮かべながら石屋に向かって言えば、石屋は一笑して仮面屋を指さした。

「失礼? おやおや、どの口がそういうのかね? 悪い男に悪いと言って何が失礼になるのか」

「私は、貴女ほどではない。極悪な貴女に悪いと言われるのは不快であり、それは私に失礼だと思いませんか?」

 仮面屋の言い分を横目に、気分が悪いと言わんばかりに腰を上げた石屋は吐き捨てるように「ふん、お言いでないよ」と言って腕を組んで壁一面に飾られている仮面を眺める。

 互いに顔に浮かべた愛想笑いとは裏腹にその瞳の奥の輝きは鋭く、相手の態度を窺っていた。


 十字街に居る者は皆、それぞれの違った商いをしている。

 商いをしていない者はこの十字街には居ない。

 十字街では店側、客側、どちらからもそれぞれを選ぶことはできず、この十字街の理によって客は必ず一軒の街が選んだ店へ行くように仕掛けられている。

 故に客の取り合いなどなく争う必要はないのだが、各店主が仲良く存在しているわけではない。

 それぞれがそれぞれの出方を窺う、そんな空気が常に充満していた。


「それにしても、一週間なんて猶予を与えて今度の子はどうするつもりなんだい?」

 まるでその場所に居たかのように言う石屋に嘲りの笑みを浮かべた仮面屋。

「また覗きですか、本当に趣味の悪い」

「ちょいと水晶で散歩をしていたら、偶然見えちまっただけさ。それで、あの子からどうやって何のお代をもらうつもりなんだい?」

「そんな事、貴女に言うわけが無いでしょう?」

「あぁ、そりゃそうだ。我等は住人であって、仲間では無いからね」

 舌打ちをしながらも笑いを浮かべて余裕を見せるかのように言った石屋に、仮面屋は鋭く射る様な視線を向けて低い声で威嚇するように言葉を吐き出す。

「貴女は、何時だって他の店の客を逃がしてしまう。この十字街の連中でそれを知らない者はない。その様な人に自分の手の内を明かすわけが無いでしょう?」

「別に私がそうしようとして、そうしたんじゃないよ。そうしようと思わなくとも、そうなったんだ。百歩譲ってあんたの言う通り私が邪魔をしていたとしても、十字街の理に背いているわけじゃないよ」

「なんとも勝手なご言い分で。とはいえ、確かに理にはございませんのでおっしゃる通り。ですが私は理にないからと言って他者の客を逃がす輩に必要以上の事柄をいう事はありません。言わなければならないと言う理もありませんしねぇ」

 仮面屋が右側に含み笑いを浮かべ、左の側の仮面はなんとも苦々しい顔つきで石屋を眺めると、石屋はその表情に艶笑で返事をし、ゆらりとその艶やかな顔を仮面屋の顔の目の前に持って来る。

 石屋の体の動きで揺れた空気に仮面屋の嫌いな白檀の香りが含まれて、左の仮面は更に眉間にシワを寄せて顔を歪ませて嫌がったが、右の顔は見つめてくる石屋の顔を薄ら笑いで見返した。

「何か?」

「別に。いつ見てもあんたの顔は綺麗だねぇ、羨ましい限りだよ」

「貴女に言われても嬉しくもなんともないですね。用が無いのであればお帰り頂きたいのですが。私もそう暇じゃない」

「あぁ、そうだね、黙々と読書に勤しまねばならぬもの」

 いやらしく独り笑いをする石屋を相手にする事無く、仮面屋はゆっくりと優雅に足を組んで先ほど閉じた本をそっと開き何の含みも無いただの微笑みを石屋に向かって投げつける。

 何かしらの文句が帰ってくるかと思っていた石屋は、その様子を見てつまらなさそうに溜息をつくとわざと足音を高く立てて、あたりに騒々しい音を響かせた。

 騒がしさを嫌う仮面屋の耳が動いたのを見て楽しげに、

「おや、失礼」

 と言って敷居を踏みしめ、振り返らずに仮面屋に声をかける。

「また、本屋も交えて皆で酒でも飲もうじゃないか。騒がしく派手派手しくね」

 石屋の言葉に仮面屋が返事をすることは無く、沈黙が背中にのしかかってきたが、その沈黙すらも楽しいと言わんばかりに口の端を引き上げて笑い、大きな音を立てて扉を閉め石屋は自分の店に戻って行った。

 左右に揺れ動いていた鐘がゆっくりと振り子の動きを鎮め、辺りが再び静寂に包まれた時、仮面屋は視線を扉の方に向けて微笑する。

「……全く困った方だ」

 それだけ呟くと、仮面屋は再び無表情で手元の本を読み始めるのだった。

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