7話
気が付けば鈴はいつもの薄暗い街灯の下でぼんやりと立ち尽くしている。
暫く呆然としていた鈴だったが、近くを通る車のクラクションの音で意識をはっきりさせて辺りを見回した。
「あれ? 私ったら何をしているのかしら?」
なんだか長い時間何かをしていたような気がするが、霞がかかったようでどこかはっきりしない意識が頭の片隅にある。だが、それが何のかは全く分からず、自分がこの場所に佇んだままの理由も分からない。
自分の行動を思い出そうとすればするほど訳が分からなくなっていくようだった。
「そうだ、確かいつもより汚れていて」
汚れを確認しようと自分の体を見ればそれほど気になる汚れは無い。
「おかしいな、確かに汚れていたような気がしたんだけれど」
何かが違う、そう思うのだが、汚れなど無かったのではないかと記憶から消えていくようで、まるで先ほどまで見ていたはずの夢の記憶が薄れていくような感覚だった。
そして、そんな意識の中で鈴はなにか大切な約束があったような気がして仕方が無い。ただ、この場所でいつまでも考え込んでいるわけには行かないだろうと、とにかく帰宅することにした。
その道中も「大切な事」が頭の片隅から離れることは無く、一生懸命に頭を働かせ思い出そうとする。しかし、幾ら考えても全く思い出せず、僅かに引っかかるような事柄も無い。
部活動もしていないし、いつも通りの一日だったにもかかわらず体が非常に重たく、一歩踏み出すのもやっとの状態でいつの間にか考えはそちらの方に移行していってしまった。鈴は疲れと釈然としない気持ちを吐き出すように溜息をつく。
「思い出さないってことはそれほどたいした事じゃないのかもしれない」
あまりの怠さに何度かの休憩をはさんでやっとアパートの三階、自分の家のドアの前までやって来た。
いつもならなんとも思わないのに今日はどうしてこんなに疲れるのだろうと肩で息をしながら首をかしげる。
母一人、子一人の鈴は当然の事ながら鍵っ子。
母親が自分の帰宅する時間に帰っているなどめったにないが、今の鈴にとってそれは少々救いでもあった。
今日のようにまだ身なりがましな時は良いけれど、明らかに何かがあったのだろうとどんな人が見ても分かるような身なりの時もある。そんな様子で帰ればどんなに鈍感な母親でも我が子を心配するだろう。
鈴にとって母親が自分を必要以上に心配してしまうことは避けたい事だった。
物心付いたときから自分の傍にいたのは母親だけ。
父親のことを聞けば母親はとても嫌な顔をして話したくないと一言。
祖母から死別ではなく父の悪行により母から離婚をしたということを聞いただけで詳しいことは何も分からない。父がどんな人でどんな姿をしているのか、それも分からないのだ。
鈴の母親は決して弱みを見せない人。
だから鈴の祖父母に頼ったのもまだ鈴が小さい頃だけ。鈴自身が自分の事は自分で出来るようになれば母親は実家を出て自分で生計を立て始めた。
小学生の頃、母親しかいないことで馬鹿にしてくる人は同級生であれ、大人であれ沢山いた。父に会いたいと思わなかったといえば嘘になる。でも鈴はその言葉を一度として母親に言ったことは無い。なぜなら懸命に働いてくれている母の姿を見ているとそんなこと、単なる自分のわがままだと思えてしまったからだ。
「そう、私は我慢した」
突然、自分の頭の中に反響するように響いた声に鈴は鍵をカギ穴に差し込もうとしていた手を止める。
「だ、誰?」
辺りを見回してみるが通路に居るのは自分だけ。部屋の電気がついている場所がいくつかあるが、そこまではっきりした話し声が聞こえてくるわけではない。それに声は確かに自分の頭の中で響いたのだ。聞こえてきた声は聞き覚えのある自分の声だったことにも驚いていた。
「誰か、居るの?」
無意味な質問、そう頭の中で思っていながらも口に出さずには居られなかった。そうでもしなければ鈴は自分自身が何だかおかしくなってしまっているような気がしたからだ。暫く動きを止めて静かに辺りをうかがったが声は聞こえない。
「どうかしている。熱が出ているのかもしれない、早く寝てしまおう」
鈴は背中に走った悪寒を熱のせいだと思い込むようにして再び鍵穴に手を伸ばしたが、疲れているせいなのか、それとも先ほどの声のせいか。震える手はすんなりと鍵穴に鍵を入れてはくれず、金属音があたりに響く。
鈴が文句を口から吐き出そうとした瞬間、玄関の明かりが自分を照らし玄関のドアが開かれた。
「おかえりなさい、遅かったわね」
そう言って出迎えたのは母親で、いるとは思っていなかった人物が出迎えたことに驚いていると、母親は首を傾げて鈴を見つめる。
「どうかした?」
「ううん、ただ帰って来ているとは思ってなかったから」
鈴の言葉に母親は大きな声で明るく笑う。
「今日は早く帰るって朝言ったの忘れたの? ほら一階の立花のお祖母ちゃん、良くしてもらったけど亡くなって身寄りがないっていうから色々やってあげないとねって話をしたじゃない」
母の言葉を背中に、鈴は玄関のすぐ近くにある自分の部屋に入る為のドアノブを握って動きを止めた。
「それって、昨日の朝の事じゃない」
「何言っているのよ、今朝よ今朝。本当にどうしたの、鈴がそんなこと言うなんて珍しい」
母親は再び笑いながら居間の方へと歩いていき、あちらからは夕食の準備でもしているのか皿がぶつかり合う音がする。
耳にその音を入れながら自分の部屋に入った鈴は眉間に皺を寄せながら考え込んでいた。
鈴にとって、「立花のお祖母ちゃんが」という言葉は本当に昨日の朝に聞いた言葉であり、確かに昨日は母親の帰りは早かった。
先ほどのように玄関で自分を出迎えて、立花のお祖母ちゃんの手続きをしていると、何処から聞きつけたのか親戚だと言う人がやってきて一悶着あって大変だったという話を夕食の時に聞いた。
それ以外にも早く帰ってくるために仕事を急いで終わらせたかったのに、若い事務の子がきちんと仕事をしてくれないから帰れないかと思った等の愚痴を聞き、愚痴でありながらも久しぶりに母親との時間が長く持てて少し嬉しいと思った日。忘れるはずがない。
鈴は着替えながらも考え込み、そうだとばかりに携帯電話を取り出してそこに記されている日付と時間を見た。
「どうして、昨日が今なの?」
携帯電話の画面には昨日の日付と現在の時刻が記されている。
正夢という物なのだろうか? そう思ってみたがあまりに現実的な昨日の出来事が夢とは思えず、一体自分はどうしてしまったのかと考え込んでしまう。
「どういうこと? だって今日私は、確かあの場所に……」
そう言いかけて鈴は言葉を出さずじっと黙り込んだ。あの場所と言葉を出しておきながらあの場所とは一体どこのことなのか分からない。ぼんやりとしていると居間から母親の呼ぶ声が聞こえ、返事をして部屋を出る。
知らない間に時間が巻き戻され日付までが過去へと逆戻りしている。鈴にとってはそんな感覚だが、母親の態度を見ているとそんな様子は無い。呼ばれるままにリビングに並べられた夕食のメニューを見て再び鈴は目を見開いた。
そこにあったのは、確かに昨日食べた夕食のメニュー。
久しぶりだから張り切ったと鈴が大好きなカニクリームコロッケをメインにとても二人の食卓とは思えない量が並んでいたから良く覚えていた。
何かがおかしい。
一瞬は自分が夢を見ていたのかもしれない、思い違いかもしれないと思ってみたが、ここまでの符合というのはあり得るのだろうか。明らかに自分がすでに体験した内容で、昨日の事だとはっきり言う事ができる事実に困惑していた。
更に、自分の目の前にいる母親は同じ日を繰り返しているというのに、まるでその出来事が初めての事のように振舞って接している。
「いつも鈴にばかり食事を作ってもらっていたでしょ、久しぶりだし、今日は張り切って鈴の好きなものを作ったのよ」
(そう、昨日も同じことを言っていたわ)
鈴は心の中でそう思っていたが、表面上では何事もなかったかのように「すごいね」と母親に笑顔を見せていた。だが、どういうことなのだろう? という疑問は常にあり、夕食を終え一人になれば妙な体の怠さと共に疑問の答えを探す。
答えの出ない鈴はそのまま眠りについてしまったが、それは鈴の日常が日常でありながら非日常な形を成し始めた、まさに「始まり」だったと気付くのはほんの少し後の事だった。
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