5話

 そっと手を開いたり閉じたりして動かしてみる。

 足も考えた通りに動く。その場であれば至って自由に自分自身の体を自分で動かすことが出来る。だが鈴は椅子から立ち上がって出口に向かうことはできなかった。

 頭では分かっていても脳から「動く」「帰る」と言う信号が手足に送られないのか全く動けない。帰ることができない自分自身に諦めた溜息をついた。逆らっても仕方がない、店主の言葉は嘘に近い、ここでは店主が一番なのだ。鈴はそう思って「はい」と返事をしようと店主の顔を見る。

 店主の顔にある仮面はまるで能面の若女のような艶やかな表情をしているように見えた。

 先ほどまではまるで人を嘲るような馬鹿にした含み笑いに見えた店主の仮面。しかし、今は全く違う表情を浮かべている。店主はこれといった動きをしていないし別の仮面をつけたというわけではないはず。なのに見る度に、無表情であるはずの真っ白な顔半分しかないその仮面の表情はころころと変わっていくのだ。

 初めは、自分の目の前にいるその仮面が恐ろしく感じ心に怯えが現れ、さらに時間が経てば嘲りに見えて憤った。だが今鈴はなぜこの表情を見て恐れ憤ったのだろうと不思議な気持ちになっていた。

「どうしました?」

 聞いてくる店主に鈴は「なんでもないです」と言おうと口を開く。

「私は、選ぶ事はできません」

 全く思ってもいない、喋ろうとしていない言葉が自分の口から出てきて目を見開いて鈴は驚いた。

 身体の自由が奪われたと思った時と同じく、これもまたこの店主の仕業ではないのかと鈴は眉間に皺を寄せる。怪訝な瞳を向けられた店主だったがそれに気分を害することもなく、変わらぬ表情で鈴を見つめていた。

 見つめている店主に向かって今の言葉は自分が言った物ではないと否定しなければと鈴は言葉を出そうと思ったが喉が動くことも唇がわずかに動くこともない。どんなに強く頭で念じても全く動かないのだ。

「選ぶ事ができないと?」

 一体どうなっているのか、鈴が混乱の中に居ると鈴から発せられた言葉に店主が尋ねてくる。すると、どんなに念じても動かなかった鈴の唇が再び動いて言葉を吐き出した。

「私は誰かが決めてくれた事に頷く事が良いと思っています。だから、私自身が選ぶことはできません」

 何を自分は言っているのだろうか? 鈴は疑問と共にどうにもならず勝手ばかりをする自分の唇に苛立ちを覚える。

「ほぉ、誰かが決めてくれた、自身の事なのにどうしてそんなことを?」

「それが一番その場を治めるのに良い方法でしょう? そこに居る大勢の意見の中でどちらか多いほうの意見に賛同する。多数決の仕組みですよ。争いも起きないし面倒も無い」

「なるほど、それは一理ありますね」

「だから、今まで自分の意思で自分のやりたい事を選んだ事はありません」

 鈴の心臓は早鐘を打つように熱い血液を勢いよく四肢に送り出す。

 その反面、手足の先は酷く冷たくなっていくのを感じた。

 唇から発せられる勝手な言葉は鈴の胸を締め付け苦しくて眉間の皺はなお深くなる。

「分かっていただけますか? 帰れといわれれば帰ります。聞けと言われれば聞きます。でも、どちらかを選択する事など私にはできないのです」

 唇は容赦なく、もう止めて欲しいと思っている鈴の気持ちなど知ったことかと言わんばかりに言葉を吐き出した。相槌を打つ店主の仮面は時に共感してくれているように見えながらも馬鹿にしているようにもみえる。だがその態度すら気にならないほど鈴は自分の唇が勝手に喋る言葉の方が気になり、必死で動くな喋るなと念じていた。

「それが良いとは思わない」

 声色が変わる。

 確かに鈴の口から出ているのに先ほどとは打って変わって低く、まるで男の人が喋っているような声が発せられた。

 そう、今度は更に違う者の呟きとなって鈴の唇は喋りだす。

「私が皆の言葉に頷き、皆の願いを叶えるたび、皆はより私に強く要求してくる」

 店主は呟きに納得するように深く何度も首を縦に振り「それは、それは」と同情にも似た哀れむ声で返事をした。

「でも、私はそれに逆らうこと無く再び頷いてしまう。嫌なのに、頷きたくないのに」

「困りましたね」

「良い子で居たい。迷惑をかけたくない。争い事は嫌。だから、私は頷く。だから、私は私を殺す。私は私ではなく、他の誰かの為の私になる。だから、私は私自身で何かを選ぶなど出来ません」

 勝手な言葉を吐き出した二つの声色がそろって出来ないと言えば鈴の口はゆっくりと閉じ、それ以降自らの意思に反して開く事は無かった。そして鈴は勝手に喋ったそれらの内容に胸を締め付けられる様で苦しく言葉を発せなかった。

 勝手に話される言葉に初めは違うと言いたかったが、その内容を聞くほどに違うとは言えなくなり、最後には胸の苦しさに瞳を閉じる。

 そうでもしていないと涙が零れ落ちそうな気がしたからだ。そんな鈴の様子を横目に店主は店の奥へと引っ込んだ。

 誰もいない、たった一人の空間に響くのは古びた柱時計の振り子の音。そして、鈴の耳に響くのは自分の胸が早鐘を打つ音。鈴の頭の中では「そんなことを言いたかったわけじゃない」「店主の機嫌を損ねてしまった」「私はそんなこと思ってない」「もう嫌だ、逃げ出したい」という思いが駆け巡る。

 そして、適当でも自分の思っていることと違ってもどちらかをさっさと選んでおけばよかったという後悔もしていた。

 鈴は人の行為を極端に気にする。

 自分が行動を起こしたのち、相手が受け入れ「陽」の雰囲気を出せばほっと胸をなでおろし、拒否という「陰」の気配を出せば己の行為を責めた。それは鈴が無意識に行ってしまっていた事であったが、鈴自身はそれに気が付いていない。

 呆然と下を向き、自分の行為を後悔している鈴の視界に真っ白な仮面が入り込んできた。

 突然の出来事に心臓を一度大きく跳ねさせて、後ろへ体を動かせば椅子が床とこすれ大きな音が辺りに響く。

 瞳を見開き仮面を眺めた鈴は、仮面から伸びている腕をたどって店主がそこに居ることに気付いた。

 仮面を手にした店主はゆっくりと唇の端を瞳に向かって引き上げる。それは少々嘲ているようにも見え、鈴は未だ血液を大量に送り出している心臓の上に手を置いて少し浮かせてしまった腰を下ろし椅子を引く。その間も店主は手に持った仮面を鈴の視界の中に入る様に動かし、早く受け取れと言っているような態度を取っていた。

 視界にどうしても入ってくる仮面を通り過ぎ、その向こうに居る店主の顔を怪訝な瞳で鈴が見つめれば、店主は仮面をテーブルに置いて、そのままもう一脚の椅子に腰を下した。

 テーブルに置かれた仮面は目も口も無く、唯一鼻だけは在るように見え、凹凸に落とされる影でそれが人の顔を模ったものだと分かる程度。

 鈴の視線は自然と仮面に注がれる。

 目の前に座った店主は一切仮面についての説明をしようとせず、肘をついて両手の指を絡ませて出来上がった場所に顎を置く。

 その様子に自分が何も聞かないから何も言わないのだと思った鈴が一体これは何なのかを聞こうと口を開きかけた瞬間、店主はその言葉を出させないかのように「どうぞ」と鈴に言った。

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