シンガポールスリングとミモザ
1
賑やかな街の雑踏よりもずっと大きく楽しげな歌声が、今が何時か分からぬ、人口の光に煌々と照らされた街に響き渡る。
大通りは呼び子の声や店の音楽、そのほかの人々の話し声やら相乗効果でひどく煩い状態なのに、その楽しげな歌声は良く通る声で通り中に響き渡っていた。
誰もが振り返り、一体どんな奴が歌っているのだと探してみたが、声はすれども姿は見えず。
賑やかさの中にあってその所在を確かめるのは容易ではなく、皆が一瞬は気にするものの、音と音が重なり合い煩さを増すだけの街ではそう長い時間気にされることも無い。
人々の関心を一瞬ひいたその歌声は煌びやかな場所から徐々に暮れていく路地に入り込んでいく。
そう、今日もまた、一人の客がBARにやってこようとしていた。
千鳥足でふらりゆらりと不思議なBARに現れたのは楽しげな笑顔をたずさえた一人の男。
何気なく入った路地を足の向くまま歩いてきた男は、真っ暗なその場所には不釣り合いな明るい看板を目にして鼻を鳴らし、歯を見せて大声で笑いながらドアを入ってきた。
「やぁ、やぁ、こんな所に店があるとは驚きだ」
陽気な言葉を吐きながら男は、マスターが何も言わずとも店内のど真ん中にあるテーブル席を陣取った。
不意で無粋な訪問客にも顔色一つ変えることなく、カウンターから店内に出たマスターは両手両足を大きく広げ、横柄な態度の客の元へとやってくる。
「いらっしゃいませ」
「ほぅ、ほぅ、これはなんとも美しい。おっと、男に向かって美しいは失礼かな」
「いえ、そう思われたのであればそれで」
男の笑顔にマスターの表情は動くことなく淡々と男に対処する。
その様子は店の者が客に応対する態度としてはごく当たり前のものであったが、男は片眉を引き上げ、ふふんと鼻を鳴らした。
「君はなんとも綺麗で、なんとも面白みのある人物だね」
「いいえ、面白みなどございませんよ」
「駄目、駄目。僕に嘘は通用しないよ。僕はね、人を見る力だけはあるんだ。君は明らかに僕と正反対な場所にいながらも、恐らく僕と同じ人種ではないかな?」
じっとりとした視線を向けてくる男にマスターは薄く笑って首を横に振った。
「同じ人種とは、失礼な」
そんなことはございませんなり何なりと、行儀の良い「店員」らしい言葉が返ってくると思っていた男は予想外に面白い答えにその場でのけぞる様に吹き出し笑う。
「失礼なと返されるとは思ってなかった! なんとも愉快な」
「おしゃべりもよろしいですが、お客様、ご注文はございませんか? ここは一応BAR、飲食店ですので」
そう言われ考え込んだ男だったが、男は飲み屋というのは行ったことがあるがBARなどという、このようなおしゃれな店に入ったことは無い。しかも、店員はメニューを持ってこず、テーブルにもメニューらしいものは見当たらない。
困った男は自分の眉間にわざとらしく指を置いて考え込むような態度を見せながら、口元を引き上げ横目にマスターを見上げた。
「そうだねぇ、困ったなぁ、メニューが無いじゃないか」
男の言葉にマスターは答えず、ただじっとしている。
男はその様子もまた面白いと小さく途切れ途切れに引き上げた口の端の隙間から空気を漏れさせて笑う。
「そうそう、確か昔何かの映画で見たな。こういう時はこう言うんだ『今の僕には何が一番合っているか、君が考えて作ってくれないか? 』ってね」
何処かの俳優の真似だろうか、セリフらしいところだけ声色を変え、他は何処か嘲るような口調でマスターに言った男の言葉にマスターの表情は変わらない。
「……シンガポールスリングなどはいかがでしょう?」
「ほぉほぉ、それじゃぁ、それで」
「かしこまりました」
頭を下げたマスターにむき出した歯の間から息を吐き出し笑った男。
終始人を馬鹿にしたような態度を取り、言葉の端々にその雰囲気を出しているわざとらしい男は一人きりの店内を、頭をせわしなく動かして見渡した。
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