その間も店に流れるジャズの音には似合わぬ軽快で馬鹿馬鹿しい鼻歌を奏で、両足をばたばたと落ち着き無く揺らす。

「うんうん、なかなか良い店だ。うんうん、気に入った」

 何度も自分で頷きながらそれを声に出し、大きな独り言を響かせ呟いた男は、時折何がおかしかったのかは皆目わからないが勝手に一人で大きく笑った。

 暫くして、男の目の前に円柱形をした透明なガラスのタンブラーが置かれる。

 ビンの底から放たれた赤色が上部に行くに従って透明感を増し、グラスの底を地平線に、澄んだ夕焼けの空を思わせる光景に男は瞳を大きく見開いた。

「おぉ、これがシンガポールかぁ」

 タンブラーを手に取ることなく顎を机の上に乗せ、ぐるりと自分の頭を回転させて眺める男にマスターは「では、ごゆっくり」と呟いて席を離れる。

「同類同士なのに冷たいねぇ。せめて同じ席に座ってお酌でもしてくれれば、って、カクテル飲んでいるのに酌も何も無いか」

 男の言葉にマスターの足が止まり、腰を軸にくるりと上半身を反転させ微笑した。

「同類ではございませんと先ほど言ったはずですが」

「何を言う、僕と君は同類だろう? 少々表現の仕方は違うが。そうだな、例えるなら君は罵り型、僕はおどけ型」

 罵り型と言われてもマスターの表情が変わることは無い。

 ただ、変わらぬ笑顔を顔に張り付け、細くした瞼の向こうの瞳が男を見つめるだけ。

「おどけ型? 道化の間違いでしょう」

「同じだねぇ、道化はおどけることがお仕事。人を笑わせ、愉快にする。僕は人々に笑顔を届けているのさ」

 大きく腕を広げて足を広げながら、今にもその椅子からバネが出てきてびっくり箱のように飛び出してしまうかのように言い放った男は再び腹の底から笑い声を店中に放出する。

 その態度に初めてマスターは表情を変えた。

 男に対して張り付いた笑顔ではなくただの嘲笑を送ったのだ。

「それはそれは大層な。貴方のような中途半端な道化が偉そうに」

 嘲りの笑顔は男の眉間にほんのわずかに皺を作ったが、男はすぐにその皺をなくしていつも通りにおどけて見せる。

「中途半端だって? 君は本当に退屈しないねぇ」

「おや、自分でお分りになりませんか。それは重症だ。笑わせ、愉快にするどころか、貴方は私を不快にさせているというのに」

「不快? 不快だって? この僕がいながら何てことだ。僕はこんなに愉快なのに」

 背もたれに肩を預けてのけぞった男は放笑しつつ、瞳に涙を浮かべる。

 横目で見つめたマスターはゆっくり体を元に戻して、カウンターへと歩きながらぽつりと男に聞こえるように呟いた。

「何事も、向き不向きというものがあります。貴方にとって道化でいることは本当に貴方なのでしょうか?」

 マスターの呟きに、男は今までのおどけを少し押え、マスターと同じように聞こえるように呟く。

「さぁね、本当の自分がどれなのかなんて、もうとっくの昔に忘れたさ」

「消えたのではなく忘れたのであれば思い出せばいいだけのこと」

「簡単に言ってくれるねぇ」

「簡単なことだからです。難しいことを簡単には言いません」

「……やっぱり君は罵り型だ」

 否定も肯定もせず、マスターはカウンターの向こうへ消え、先ほどとは打って変わって、足をそろえ、背もたれに背中を預けたまま俯いて、静かに男は息を吐き出す。

 笑顔も無い、表情も無い顔はじっと自分の足先を見つめていた。

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