11

 考え込むように立ち止まったままの女の後姿にマスターが声をかける。

「忘れ物ですか?」

「あ、いえ、あの……。ありがとう」

 小さく消えるような声で女は言い、開いた自動ドアの向こう、暗闇がしばらく続き、洞窟の出口のような明るさは大通りの賑やかな雑踏。

 二つの路地を曲がってやって来たはずのBARだったが、帰りはすぐ目の前に雑踏が現れ、女はその中へと走って行った。

 自動ドアが煩いほどに賑やかな雑踏の音をさえぎって、店の中に静けさが戻り、ジャズレコードの音が響く。

「慌てて転ばなければよいですが。さて、店じまいしましょうか」

 店の看板の灯りはそのままに、扉には閉店の札が掲げられる。

 音楽の響く中、マスターは女が先ほどまで座っていたカウンター席まで行き、カウンターに置かれたタオルを手に取った。

「随分厚い化粧だったのですね。それにずいぶんお泣きになられたようで。タオルが真っ黒だ」

 広げられたタオルには女の化粧がべったりと染み込んでいる。

「まぁ良いでしょう。タオルは山ほどありますし」

 汚れたタオルをゴミ箱に捨て、ふっと口の端に笑みを浮かべたマスター。

「この店にある物は一切外には持ち出せない。持ち出したとしても、私の手元に必ず戻ってくる。ここはそんな場所」

 心地のよい音を立てたカクテルグラスをカウンター奥に持ち運びながら、ふと誰も入ってこない自動ドアを見つめた。

「さて、今宵のお客様。これから少しは素直に生きていけるでしょうか?」


 どんな状況になろうとも、彼からの初めての贈り物である指輪を外す事はなかった彼女。自分なりの方法で彼を愛していた女。

 ……しかし、その想いは届かなかった。

 自分自身を素直にさらけ出すのが怖くて、恥かしくて、かぶり続けた重たい甲冑。

 ……人を寄せ付けないようにしてしまう冷たい甲冑。

 そして、何時しかその甲冑の重さを感じながらも見て見ぬふりを。自分の一部として背負い続けてしまった。

 ……女。

 重たさを感じれば自分は負ける。そんな必要の無い思いに捕らわれて。彼女は彼女自身の本当の自分を表現する事を、その術を忘れてしまった。

「そんな必要は無い、誰かに言われていれば違ったのかもしれない。しかし、彼女自身がそれを言わさないようにしてしまっていた。ここで見せた笑顔を、素直に表現できるようになる時、彼女はきっと気づくでしょうね。自分は女なのだと」

 水滴が綺麗に拭き取られ、再び何も無い状態に戻ったカクテルグラスを棚にしまいながらマスターは小さくため息をつく。

「私のようになってはいけない。振り返れるうちに振り返らなければ、きっと……」

 小さなため息は静かに空気にとけ、マスターの顔には再び変わらぬ笑顔がこびりつき、閉店の札はドアから取り外された。

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