10

「貴女にとって化粧はまるで鎧の様だ」

 優しさの中に寂しさを感じさせる声色で突然語り始めたマスターに、女はきょとんとした顔を向けた。

「化粧をしなければ人の顔を見られないといい、外に出られないと言う。人の居る場所を戦場とするなら化粧は鎧といった所でしょうか」

「鎧……。そんな風に思ったことはなかったけど、でも」

「でも?」

「案外当たっているかもしれない。朝起きて、会社に行く前に一日落ちないようにって入念に化粧をして、さぁ、今日もやるぞって出て行くんですもの」

 恥ずかしそうに言う女の姿にマスターは緩やかな微笑みを向け、優しい声色で問いかける。

「たまには、化粧と言う鎧をといて甘えてもいいんじゃないですか?」

「甘える?」

「貴女は女です。男と女は違う。体も心も何もかも。貴女も本当は、心の底ではわかっているのでしょう? 貴女は十分美しく、そして可愛らしい。全てに肩を張るのではなく、時には肩の力を抜いて誰かに甘えても罰は当たりませんよ」

 女はマスターの言葉に顔を真っ赤にして再び俯いたが、今度は恥かしそうに口角を上げて微笑する。

 マスターの言葉を皮肉としてではなく、素直に嬉しいと受け取れるようになっていた。

「貴女が今飲んだお酒はホワイトレディーといいます。そして私が飲んだお酒がサイドカー。見た目は全く違いますが実は一つの素材、ベースのお酒を変えただけのカクテルなのです」

「たった一つだけ?」

「そう、少しの要素で違った顔を見せてくれる。楽しいでしょ? 女と男も同じです。何時も同じものばかりでは楽しくはない。同じなのに少しの要素で全く違ったその人を見ることが出来たら……。もっともっとその人の事を知りたいと思いませんか? もっとずっと一緒に居たいと。そうする中でお互いがお互いを深く愛していくとそう思いませんか?」

 マスターの言葉に頷いて、今までの自分を振り返ってみた女はカクテルグラスに入っている二つのお酒を見比べ、少し納得したような、けれど何処か困ったような溜息をほぅと吐き出した。

「私……、私が間違っていたのかしら?」

 素直な女の疑問だった。

 確かに自分は甘え方が分からず、そして恥ずかしさから全く違う自分を見せようとは思ったことなどなかった。

 違う自分を見せることが恥ずかしかったし、見せた時の相手の反応が怖く思えたこともある。

 今までならそんなことを聞いても「私は間違ってないもの! 」と自信満々で答えただろうが、今の女はそうは思えず、今までの自分を否定するのもなんだか嫌でつい疑問をこぼしてしまった。

 それに対してマスターは「いいえ、間違ってはいません」と女の言葉を認める発言をし、女は本当に? と言わんばかりの瞳でマスターを見つめて頭を少し傾ける。

「女のくせに、それは大変失礼な言葉です。男のくせにと言うのも同じこと。ただ、それに対抗して貴女が貴女自身の中にある全ての女性を押込めてしまう必要は無かった。体も、思考も、男と女では違うのですから。会社では女と呼ばせない貴女で居てもいい。しかし、一歩外に出た時、貴女は貴女の女性で居て良いんです」

「私の女性……」

「そう、貴女は美しく、そして賢い方だ。私の言っている意味が今、分からずとも、いずれ分かる時が来るでしょう。ですから、それを知った今日、このときに乾杯を……」

 目の前に差し出されたグラスを見て、女は自分のグラスを持って再びグラスを重ねた。

 女の疑問に応えたマスターの言葉はなるほどと頷ける回答で、女の頭から疑問は頭から消え去り、今までの自分を否定する必要はないけれど、これからは少し変わる努力もしてみようという明るい気持ちにさせていた。

 ゆっくりと、自分の為の自分のカクテルを味わいながら女が飲み干した時、店の奥にある古めかしい柱時計がその重厚な音を響かせ、時を知らせる。

「大変、明日も早いのに……。そんなに居たつもりは無かったのだけど長居してしまったわ」

 女は慌ててカウンターの席を立って、支払いを済ませる。

 荷物を抱えて小走りで出口に向かった女はふと立ち止まった。

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