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「一体何の話?」
「いえ、何でも」
「気づきませんか」という不思議なマスターの言葉に素直に疑問を投げかけたが、マスターは微笑んで何もないという。
この店に入ってくる前の女であれば「何でもないこと無いでしょう」と更に質問をしただろう。
しかし、この時点で頭のいい女はマスターと言う生き物は、質問に質問を返したところで明確な答えを教えてくれる存在ではないと悟っていた。
コットンで満遍なく自分の顔を拭き取った女は、下を向いたまま頭にかぶされた大きなタオルを取り、濡れたタオルと一緒に綺麗にたたんでカウンターに置いて、タオルに手を掛けたままの状態で女は言う。
「ごめんなさい、かなり汚れてしまったわ。ちょっと借りて行って良いかしら? 洗ってまた持ってくるわ」
「汚れは構いません。タオルも沢山ありますから気にしないでください」
とても優しい声色で言うマスターに女は少々考え込んだが、タオルを握りしめて首を横に振った。
「でも、やっぱり何だか悪いわ。ちゃんと綺麗に落とせるか分からないけど、持って帰って洗ってくるから」
そう言って女はカウンターに置いたタオルを無造作に自分の鞄に押し込んで、顔を伏せながら辺りを見回す。
「あ、あの。お手洗いは何処かしら?」
マスターにつむじを見せるほど下を向いて、聞いてくる女に微笑みを絶やさないマスターは女の後ろに掌の指先を向けた。
「あちらになります。しかし、どうして下を向いたままなのです?」
「だって、化粧も全て落ちてしまっているんですもの。私はとても美人と言える顔じゃないし、もしかしたら普通以下かも。こんな顔で外になんて出られない。貴方に見られるのも恥ずかしいわ。帰る前に化粧直しをしなくっちゃ」
女は鞄で顔を隠して後ろを振り向き、店の奥、ジュークボックスの向こうにトイレのマークを見つけて俯いたまま席を立とうとした。
すると、目の前のカウンターに音もなく突然一つのグラスが差し出される。
逆三角形のカクテルグラス。
店の照明に照らされてきらきらと輝くグラスを横目に見た女は視線をカウンターに戻した。
透明感のある白く美しい液体がグラスの中で緩やかに波打つ。
「あ、あの、私、トイレの場所を聞いただけで、こんなの頼んで無いわ」
「私から。貴女への贈り物です」
「贈り物?」
「えぇ、貴女が迎えた今日と言う日のお祝いに」
一瞬驚いた女だったが、口元に自分自身に対する嘲笑を浮かべて鞄を持った手の力を強めて深い息を吐き出した。
「残念だけど、私、今日が誕生日じゃないわ。それに、どちらかといえば今日はお祝いするような日じゃない……」
「いいえ、是非お祝いしなければならない日ですよ」
マスターの言葉を聞いて女は俯くことも忘れて鞄をゆっくり鼻の辺りまでおろし、マスターに向かって疑問の瞳を向ける。
明らかに「何を言っているの? 」と聞いてきている女の視線を確かめながらも、マスターは応えることなく微笑んで、そっと、もう一つカクテルグラスを取り出し、自らが作ったカクテルを注いだ。
女の手元にあるカクテルとは違った琥珀色に近い色をした、それもまた緩やかに波打ち、店の照明を反射させていた。
「失礼して私も。さぁ、貴女の今日と言う日に乾杯をしましょう」
マスターの笑顔は怖いほどに強制的。
その笑顔が向けられた途端、女は鞄をカウンターに置いて、手は自然とカクテルグラスの脚へと伸び、手にしたグラスを差し出されたグラスに軽くぶつける。
鈴のように透明で美しい音が響き、音が耳に染み込んでくれば、女は自然と微笑んでカクテルを口に運んだ。
「美味しい、良い香りが口の中に広がっていく」
女の口中に染み込んで行く美味しさに、再び笑みがこぼれ、店に入ってきた時とは全く違う可愛らしい顔を見せる。
マスターは一口含んだカクテルを喉奥に、流し涼しげな言葉を吐き出した。
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