「出来れば、別のをお願いしても?」

「もちろん、結構ですよ。それでは、バランタインはいかがでしょう?」

 マスターの言葉に別のをお願いと言った物の、女は発泡酒ならいざ知らず、あまりそれ以外の酒の銘柄に詳しいわけではない。

 暫く考えた振りをしてみたがどうしようもないかとため息交じりにマスターを見た。

「ごめんなさい、お願いしておいてなんだけど分からなくて。お任せしてもいいかしら?」

 女言葉にマスターは嫌な顔一つせず、笑顔で「かしこまりました」と返事をし、軽くお辞儀をして女から離れる。

 マスターがその場を去り、手持ち無沙汰になった女の視線が店内を彷徨う。

 本当に繁盛していないと誰も居ない空間を見渡し誰もいないことで静かだけれども寂しさも感じると思っていた。

 そして、ぼんやりと照らし出される店内の間接照明が、なんだか冷たい雰囲気を際立たせているように感じる。

 温かさ、そんなものは一切なく、自分にはお似合いの場所だと小さな溜息をつき、瞳の端に例のウィスキーの酒瓶をとらえた。

 少し低く、アイスピックで氷が割られる音が響き、甲高くグラスに氷がなだれ込んで、その音を耳にしながら女は酒瓶から外れない視線を無理やり遮断するように瞳を閉じる。

 店内に響く女の為に作られるウィスキーの音とジャズの曲だけとなり、女は未だ瞼の裏に焼き付いている光景に胸が締め付けられる様で、頬杖をつき溜息を一つ。

「どうぞ……。バランタインです」

 不意に声がかけられ驚いた女は瞳を開けて頬杖をつくのをやめ、思わず膝に手を置きかしこまった。

 足音がすれば少しはまともにマスターから酒を受け取ることが出来ただろうが、マスターがやって来たことにすら気付かず、驚いて心臓が未だにどくどくと脈動している。

 目の前を見れば、何時の間にやらコースターまで置かれ、かち割られた氷が様々に光を反射し存在を主張していた。

 解けた氷が崩れる際にグラスに当たって澄んだ音色を響かせる。女は差し出されたウィスキーを見て、ほぅと一つ息を吐いた。

「綺麗ね。氷に光が反射して。ウィスキーの琥珀色がとても綺麗だわ」

「ありがとうございます」

 女の言葉に柔らかな笑顔を向けながらマスターは女に礼を言う。

「私、ウィスキーがこんなワイングラスみたいなので出てくるなんて思っても見なかった」

 女の目の前に差し出されたウィスキーは平たく丸いプレートから細い脚を上に伸ばして、脚には似合わぬ丸みのある柔らかな曲線を描いた大きめのボウルを持っているグラスに入れられていた。

「香りを楽しんでいただこうと思いまして。グラスの脚を持って一、二度グラスを傾けながら回してみてください」

 マスターの言葉に女はグラスの脚をもち、こぼれないようにと注意しながら慣れない手つきでグラスを回す。

 すると、あたりにふわりと良い香りが漂った。

「いい香り。なんだか疲れが和らぐ気がするわ」

「それは良かった」

 マスターは音もなく口角を少し引き上げて微笑み、女はグラスの脚を持ったままそっとウィスキーを口に含む。

 一口、また一口とウィスキーが喉に流れ込んでいけば、女の頬は火照り、そんなにお酒に弱いはずでないのに頭がぼんやりとしてくる。

 雰囲気のせいなのか、それとも薫り高いバランタインがそうさせているのか。

 頭に霞がかかったようでありながら、女の中に思い浮かんでいるのは自分の働いてきたその姿。

 カウンターの向こうに居るマスターの白く美しい横顔に見とれつつ、女はぽつりぽつりと話し始めた。

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