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ゆらりと人影がすりガラスの自動ドアの向こうに揺れ動く。ドアの前に敷かれた「WELCOME」の文字が書かれたマットを踏みしめれば自動ドアが音も無く開き、一人の女性が現れる。
後ろで一つにひっつめて、整えている長い黒髪は少し傷んでいるのか、店の明かりをぼんやりと跳ね返していた。黒いスレンダーなスーツに身を包み、仕事のできるキャリアウーマンをそのまま表したかのよう。薄い唇には小豆色をした口紅がしっかりと、ワインレッドのフレームの眼鏡は、瞳をガラスの向こうに隠している。
ゆっくりと窺うように入ってきた女はハスキーな声でカウンターの向こうに居るマスターに声をかけた。
「あの、まだ、営業してないのかしら?」
女の声にグラスの水分を拭き取っていた手を止めて、マスターは顔を上げ、瞳を細くし薄い笑顔を浮かべて首を横に振り「いいえ」と答える。それを聞いて女は少々こわばったような様子を見せていた口元を下げて安心したようだった。
「そう、ごめんなさい。あまりにも誰もいなくて暗いからどうなのかと思って」
「大丈夫ですよ。ドアが開きましたでしょう? 開店しているという事です」
当たり前のことではあるが、自分の言い訳に当然開いていますよと言わんばかりの態度を取られ、女は一瞬たじろぎどうしようかと迷ったが、再び口元を引き締めマスターにしっかりと顔を向ける。
「じゃぁ、お邪魔しても大丈夫なのね?」
「えぇ、どうぞ。この店がお気に召されましたのなら」
にっこりと微笑むマスターの笑顔に女は口の端を少し上げた愛想笑いで返し、席に向かって歩きながら店内を見渡す。
広いホールにはダーツやビリヤード台等の遊具が置いてあり、テーブル席が六つあった。
ホールのテーブル席へ向かおうとした女の足が止まり、女は唇に人差し指をあてがい、爪を噛む。自分以外の客はおらず、繁盛しているとも思えない店だったが、女はカウンターへ視線を移し、テーブル席に向けていた足を十三並んだ椅子の一番左端へ向けた。
テーブル席にある椅子よりもちょっと高い椅子にカウンターに手をつきながらよじ登る様にして腰を下ろす。
「何になさいますか?」
女が腰を下ろし、バッグを隣の空いている席に置いて、一息ついたのを見計らいマスターが声をかけた。
女はマスターの後ろの棚に並ぶ酒瓶を右から左に眺め、メニューは無いのかとマスターに聞く。しかし、その質問にマスターは首を横に振って申し訳ございませんと言い、女はメニューが無い事にふぅと小さくため息をつく。
「どうしようかしら、ウィスキーとかでもいいの?」
戸惑う様に、瞳の端にテレビコマーシャルや電車の中吊り、新聞広告などでよく見る酒瓶をとらえながら言った。
「はい、かまいませんよ。失礼ですが、こういう場所は初めてですか?」
女の様子にマスターが聞けば女はメガネの上の隙間から覗き見るようにしてマスターの言葉に驚く。
「分かるの?」
「雰囲気で、なんとなくですが」
「そう、さすがプロね。こういう店には立ち寄らないから今日が初めて。よく、分らなくって。いつもは自宅で発泡酒ばかりなの」
恥かしそうに眉根を下げて口の端に少し自身に対する嘲りを含んだ笑みを浮かべて言う女に、マスターはどうしてウィスキーを選んだのかと聞いた。すると女は視線を一つの酒瓶に向けて物憂げな様子で前髪をかきあげる。
「知っていたお酒がそこにあったからよ」
「発泡酒がメインの方がよくこれがウィスキーだと分かりましたね」
「……知り合いが、良く飲んでいたの」
「さようで。では、折角ですからあちらのウィスキーになさいますか?」
女の視線の先にあるウィスキーの酒瓶に掌を差し伸べるようにしてマスターが言えば、女は首を横に振った。
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