第3話
一人目の男の物語。
ふわりと真っ暗な舞台に降り立った案内人の横に、カシャンとスポットライトが当てられる。光の中、跪く一人の男はゆっくりと顔を上げ、真っ暗で無人の観客席の遥か向こうに視線を送りながら、遠く、どこを見ているのか分からぬ瞳でポツリ、ポツリと言葉を発し始める。
「僕の愛しい彼女に出会ったのはこの劇場に通じる大通りです」
真っ暗な舞台の背景に丸いぼんやりとした月が浮かびあがり、男の視線は月へと移動し、男は自らの物語を語り出した。
僕は劇場で公演されている演劇の脚本を書き上げただけの一作家。
劇が成功すれば脚光を浴びるのは役者であり、舞台監督だ。
著名な小説家でもなければ、メディアに出るような有名人でもない。名も無き僕の様な一作家が脚光を浴びる事は無い。だから幕が上がったのを見届けたなら公演中の劇場に通うことは無かった。
だが、僕はあの日から、この劇場に足繁く通うようになる。
劇の成功、役者の出来、そんな事で通い始めたのではない。舞台が始まってしまえば僕の出番はないし、作品を手放したつもりで居る僕にとっては、舞台の事などどうでもいいこと。
目的はただ一つ。
僕の人生の中でそれは始めての経験だった。
すれ違い、その横顔を見れば化粧をしていないことは一目瞭然。
風に乗って香ってくるのは石鹸の香りだけ。眉間に皺を生むような香水や化粧の臭いは全くしない。光り輝くアクセサリーをしているわけでもない彼女。けれど、その存在は月明かりの中でもしっかりと。僕にとって、その美しい肌は夜の街でも透き通るように白く、闇夜に輝く満月のようで。
一度すれ違っただけなのに、僕の瞳は、視線は、彼女を掴んで放さなかった。
そう、僕は天使と出会った。
サラリとした風になびく黒髪は、長く、重たいように見えて、風に緩やかに軽やかに弾む。透明に白い肌同様、月明かりを綺麗に反射していた。
黒い天使……。
まさに僕には、彼女が僕をいざないに来た美しく清らかな天使に見え、彼女が通り過ぎ、姿が見えなくなるまでボンヤリとただそこに突っ立ってしまっていた。
彼女に会いたい、それだけの為に劇場に現れるようになる。二日に一回、彼女は劇場に続く大通りに現れた。僕は劇場のレンガ造りの壁にもたれかかりながら彼女だけを見つめ、彼女が僕の目の前を通り過ぎるのを待つ。
僕の瞳に映る彼女の姿が米粒ほどの大きさから徐々に大きくなっていく。彼女がもうすぐ僕の近くを通り過ぎる。それだけのことで僕の胸はこれ以上無いほどに高まり、近づいてくる彼女の薄く桃色に輝く唇を見つめていた。
彼女を見つめ始めて数日、僕は不思議なことに気がつく。
大通りをまっすぐ劇場の入り口に向かってやってくる彼女だったが、決して劇場の中に足を踏み入れようとはしないのだ。
あと数歩で劇場に入れると言う場所で歩みを止め、まるでこの劇場の周囲にバリケードが張られているかのようにそれ以上入って来ようとはしない。
人ごみに押されるようにしながらも、入り口の手前で動くこともせずじっと劇場を眺め、開演のベルが微かに聞こえると彼女は僕の目の前を足早に通り過ぎていく。それは一回だけではない。その後、何度も彼女は劇場に現れたが中に入ってくることは無い。
何故だ。
何故だ?
何故だ!
僕の頭にめぐる疑問は日を追うごとに強くなり、彼女の視線が劇場しか見ていないことに気づくと、憎しみにも似た感情がわきあがる。
僕はここにいる。なのに、何故彼女は僕を見ようともしないんだ?
僕がここにいるのに!
僕が君を見つめているのに!
毎晩彼女を劇場で待ち続けていた僕は、等々、僕の前を通り過ぎて行く彼女の背中を追いかけていた。
一人目の男の語り始めは恍惚と。そして次第に、憎悪に満ちた表情を浮かべて語り終わる。
自分に酔いしれ、自分の想いは相手の想いと同一であると思い込む男にとって、繰り返される女の態度は許しがたい行為となり、感情に突き動かされるまま女を追いかけた。
心に強く、深く女を想い、女の背中を少し離れた位置から、女に気づかれぬように何日と無く、幾度と無く、追いかけた。
男のスポットライトが消えて暗闇が辺りを支配し、舞台は暗転。
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