第2話

 さて今宵の先ずは一人目。

 現れたのは男……。

 伸びきった栗色の長い髪の毛を後ろで一つに束ね、よれた洋服を身に纏った姿は貧乏で頼りない男に見えた。男はため息混じりにフラフラと歩き、定まらぬ足取りの中思う。

(あぁ、どうして彼女は私の心を捉えて離さないんだ)

 彼女とは男の前を歩く女の事。男が女に出会ったのは数週間前、劇場の前でたたずむ女を見た瞬間、男の心は女だけになってしまった。

(僕だけの、僕の為に存在している彼女、サラサラと風に流れるその美しく輝く長い黒髪。透き通るように白い肌を化粧で隠す事はしていない。飾らない自然な姿がより彼女の美しさを際立たせている)

 物陰から劇場の入り口を通っていく彼女を見つめ、男は「ほぅ」と感嘆の息を漏らす。

 ずっと、まるでバリケードがはられているかのように劇場へ足を踏み入れることなく入り口でたたずむだけだった彼女。

 それが今宵、とうとう彼女は劇場の中へと足を踏み入れた。

 右手で小さな紙を握り締め、左手に持った大きな荷物を人にぶつけながら、神々しいまでに明るい建物の中へ入って行く彼女。そして、それ見つめていた男も距離を置き、劇場へと足を向ける。

(僕が届けた手紙を見てやって来てくれたんだね。あぁ、嬉しいよ……)

 彼女が座った席の後ろに一列、右に一席。ちょうど女の斜め後ろからうなじが見える場所に腰掛けた男はジッと彼女を眺めた。

「ククク。男は席につき、斜め前に座る女を眺める。憧れのような、とろける瞳で。逃がさないと突き刺すような瞳で」


 今宵の二人目、それは男に魅入られた女……。

 アクセサリーもつけず化粧もしない、素朴と言う言葉がそのまま人になったと言うような女だった。

 女は劇場に向かってしっかりとした足取りで歩き、時に立ち止まったりもしたが覚悟するようにチケットを差し出す。

 女のチケットは他の客と変わらぬ様で受付の、笑顔が能面のようにこびりついた美女によってもぎられた。

 劇場の客席の扉が開くのにはまだ間がある。女はロビーの片隅で扉が開かれるのをまった。

(ふぅ、とうとう来てしまったわ。彼は驚くわね……。喜んでくれるかしら? それとも怒る? ううん、怒ることは無いわ。きっと喜んでくれる)

 彼女の胸は劇場のロビーに人が増えるほどにドキドキと早鐘を打つ。息苦しさに何度も深呼吸をした。チケットの半券を握り締めた手は胸に当てられ、緊張からか小刻みに震えている。

(練習があるからと貴方が私の家を出て行ってもう一週間。貴方が帰ってこないあの部屋は寂しすぎるわ)

 目元にキラリと光る涙をそっと指でぬぐい、女は開かれた扉から人の波に押されるように中に入った。二階席もある立派な劇場は満席で、女は驚きながら半券に書かれた自分の席に腰掛ける。

 半券をポケットに仕舞い、手に持っていた荷物を膝に乗せてジッと前方にかかっている緞帳を見つめた。

(どんなお芝居なのかしら? 彼は一体どんな役柄を与えられているのだろう? 終わったら彼の好物が入ったこのお弁当をもっていこう。きっと喜んでくれるわ)

 一緒にいる間、男が女に好きだといったおかずを沢山詰め込んだ弁当を手に、女の視線は上がっていく緞帳を眺める。

 久しぶりに会える男の姿をしっかりと瞳に焼き付けようとまだ暗い舞台に大きな拍手を送った。

「女はゆっくりと上がる緞帳のその向こうに視線を走らせた。そうして舞台の幕は上がる……」


 そして、今宵の三人目。女が熱い視線を注ぐ舞台の真ん中にたたずむ男……。

 切れ長な瞳に整った顔立ちは女受けの良さそうな男。ブロンドの髪の毛は綺麗に整えられて得意気な顔が舞台に浮かび上がった。

(ククク、ようやく俺の人生の幕が開く。ターニングポイント。やっと掴んだ幸運だ、逃がしてなるものか……。この女を)

 男はギラギラした瞳を女に向ける。

 自分を高みへといざなってくれるはずの、幸運の女神を決して逃がさないと。そして、女は自分から逃げられるはずはないと心の中でほくそ笑む。

(女は利用できてこそ、その存在理由があるんだ。女など、俺を高める為だけに存在すれば良い)

 男のゆがんだ価値観に狙われた女は笑顔で男の視線を見つめ返していた。男にとって女という「者」は「物」、その程度の存在。自分は最高の役者だ……。女を騙す事なんてわけは無い、そう自身は思っていた。

(俺にかかれば女を動かすなど簡単な事だ。女は既に俺の虜になっている……。さぁ、俺に栄光をもたらしてくれ)

 打算、男の中に浮かぶのは自身の繁栄と成功のみ。

 男の獲物となった女は、男の中では、さながら蜘蛛の巣に引っかかった餌と言った所。

 男のいやらしい笑顔はじわりじわりと内側から染み出すように唇の端をゆがめていた。

「男は、表の顔ではとても優しく弱弱しく、女に柔らかい笑いを向けたが、裏ではニヤリと笑う。そんな男の笑顔に女が応えた」


 今宵最後の一人、明るくなっていく舞台の上で男に微笑みを注がれる女……。

 きらびやかな舞台に相応しい容姿。大きな瞳は潤んで輝き、体が動けば豊満な胸は男を誘うようにゆれた。

(幕が開く。これがわたしの最後の舞台になる。あぁ、貴方、見に来てくれたのね)

 女の瞳は男を捕らえ、秘めた想いがあふれ出す。

 古くから続くこの劇場の、この舞台に必ずヒロインとして立ってきた女。押しも押されぬ大女優と言われた彼女にとって舞台を去ると言うことは、それ以上のものを手に入れる手段ともいえた。そう、女は男を手に入れる為、自ら築いた栄光を手放そうとしていたのだ。

(最後の舞台、わたしは輝いてその輝きを保ったまま貴方を手に入れ、貴方はあたしを手に入れるのよ)

 明るくなる舞台とは対照的に暗さを増していく客席を眺めて、女は優しく自愛に満ちた聖母の様に微笑む。

 女の視線に映るのは客席で腰掛ける男の姿。薄明かりの中、男の視線は自分を見つめていると思い込む女は、舞台の明かりも手伝って恍惚とした高みへ駆け上がった。

(あぁ、見ているのね。あたしを、あたしだけを……。ウフフ、貴方が嫉妬するほどに情熱的に演じるわ。あたしの演技に感動したまま貴方は最高の女を手に入れるのよ。断わる事なんてないでしょう? だって、あたしはずっと貴方の脚本を演じてきた、貴方の一番のお気に入りだもの)

 女の思考に根拠は無い。

 自信に満ちた女の姿は、女がこの世界で生き抜く為に身につけたいわば鎧の様なものだった。

「女の視線は客席から舞台へ。さぁ、幕が上がる。さてさて、今宵の舞台はどのように輝き、どのような結末となるのか」

 男は女を想い、女を追いかける……。自分の正体を明かさず。

 女は男に愛を注ぎ、尽くす……。愛と言う名の偽りとも知らず。

 男は女の栄光を、貪る為に狙う……。その栄光は今夜終わるとも知らず。

 女は男が客席に居る、その事に喜ぶ……。男がここに居る本当の理由は別にあるのに。

 煌々と照らされる舞台では一人の男と一人の女の物語が繰り広げられる。歌を挟み、情熱的に演じる女優と、どこか素人臭い芝居をする男。

 何故かひきつけられるその内容に観客席は静かに芝居を見守った。何十回と公演された芝居が始まる、今夜今宵のこの舞台で、もう一つの舞台の幕が開いたことも知らずに。

 愛は愛を呼ぶ。だが、それが必ずしも愛と愛をつなげる物ではない。

 つながる愛。それは何処にでもあるものではない。

「交錯し、交差し、繋がる想いと繋がらぬ想いは、愛はいったいどこに行くのか。偽りの物語に魅入られた観客は其れを観ることもできない。なんとも残念だ」

 観客席の真上のシャンデリアに腰を下ろし、口の両端を引き上げて、真っ黒な空に横たわった真っ白な三日月が現れたようにニヤニヤと、不気味な笑みを浮かべる案内人。何度も繰り広げられる舞台上の物語と、舞台の外の真実を眺め、楽しんできた一番の観客。

「また今夜も楽しい舞台となりそうだ……」

 案内人の呟きが聞こえる者はこの劇場の何処にも、誰も居なかった。そして、案内人の特別な舞台の幕が上がる。

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