第43話

 婚姻届とそう変わらない作りでありながらその内容は正反対の紙切れ。

 丸い顔に満面の笑みを浮かべて、息を切らせながら封筒を握り締めてやってきた登紀子を清史は可愛いと思い、幸せにしてやらないとと思った。

 自分のことはいつでも後回しで、一生懸命やってくれる姿を愛しいと思っていた。

 家族のために何でもやってくれる登紀子が当たり前になったとき、その思いは消えて自分勝手な思いばかりが浮かび上がってくるようになった。


 もう少し女らしくしたらどうだ。

 化粧もしない着る物もお洒落のおの字も無いじゃないか。これが俺の妻とは……。


 主婦は暇で良いな。

 俺が働いて稼いで来た金で悠々自適、うらやましい限りだ……。


 俺はこんな女を抱くしかないのか。

 世の中不公平だな、俺より出来ないやつがいい女を抱いて俺はこれか……。


 いったい登紀子はどんな躾をしているんだ。

 父親に対してあの態度、真由美はろくなやつにならないぞ……。


 考えてみれば自分の不満ばかりが頭の中にあって、苛立つのが嫌だからと家族のことは見て見ぬ振りをし続けていた。

 泣き笑い怒り、感情豊かで明るく活発で何でもぽんぽん言ってしまっていた登紀子が、張り付いたような笑顔で生活していたことに今更ながら気付き、穏やかにリビングに視線を向ける登紀子の横顔を見ながら「……駄目なのは、俺か」と呟く。

 口の中だけでの呟きは登紀子に聞こえることなく、清史は黙って離婚届の自分の欄を埋めた。

 綺麗に欄が埋められた離婚届を二つ折にし、さらに二度折って小さくした清史は登紀子にそれを渡しながら言う。

「これは、お前が持っていてくれないか」

「出すのは貴方がやってきてくれませんか。私はとても出せないわ」

「それはまだ俺に愛情があると思っても良いのか?」

「……なきゃこんな風に話をしてから別れようなんてしませんよ。さっさと離婚届だけ書いてもらって出してきます。私は貴方のことを愛していないときはありませんでしたよ。貴方と違って」

「そうだな、お前の言う通りだよ。登紀子、お前にこれを預ける代わりに俺にチャンスを与えてくれないか」

「チャンスって?」

「俺がきちんと家族と向き合うための時間を与えてほしい。考えてみれば登紀子に対しても真由美に対しても俺はきちんと向き合っていなかったと思う。仕事が忙しい、稼いでいるのは自分であり家庭が駄目なのはお前たちが悪い、そんな風に思っていたのは認める。はっきりいって俺は駄目な夫で父だと今更分かったよ。だからこれからは家庭をちゃんと見ようと思う。それで駄目だとお前が判断したときは俺に相談せずにこれを役所に出してもいい」

 清史の申し出に登紀子は一瞬戸惑った。

 あの清史が本当にちゃんと家族と向き合えるだろうかと思ったからだ。

 結局そういいながら同じことの繰り返しにならないだろうか。清史とは結婚してから何も無かったわけではない。

 当然夫婦喧嘩もあったし、その都度こうしていこうなどということを言ってきたがそれが実行されるのは十個のうちせいぜい三個程度だった。

 結局何度も言うのが面倒になり根負けした形で登紀子が気を利かせているというのが現状でもある。


 チャンスをくれないか。


 その言葉自体は嬉しいものであったが現実問題どうなるか、今までの清史であれば確実に木阿弥状態になるだろう。登紀子が返事を迷い考え込んでいると、

「あたしも協力するよ」

 突然階段側のリビングの入り口から真由美の声がした。

「真由美、寝ていたんじゃなかったの?」

「気になって寝れるわけないじゃん。今回はあたしも悪かったし」

 リビングに入ってきた真由美は登紀子の隣の椅子に腰掛け、じっと清史を睨みつけるように見つめる。

「あたし以上に悪いのは父さんだけど、これでまた同じ事やるようなら本当にクズだもん。さすがにそれは無いでしょ、ね、父さん」

「お前はまたそうやって親に向かって偉そうに。常日頃思っていたことだがお前は親を軽視しすぎじゃないか?」

「今まではただ嫌だってだけで反抗していた感じだったけど、今は父さんのことちょっと軽蔑しているよ。だっていい年して若い女に腰振っているなんてただのエロ親父じゃん。助け舟なんか出すつもりは無かったけど今回はあたしも悪いし、何より母さんが今後どうするかの決定権を父さんに与えて、さらに父さんがその決定権を母さんに渡したから口を挟んだの。母さんは迷っているみたいだけど、まだ互いに思いあう気持ちがあるんだもん、試してみても良いと思ったんだ」

 少し照れながら言う真由美の言葉に登紀子は少し微笑んで「そうね」といった後、離婚届を手にし清史を見つめる。

「今までいろんなことを私の中だけで解決させて、何も言わないように努力してきたけど私は今日からそれをやめます。貴方にとって鬱陶しいとか嫌だと思うことも言うでしょうし、貴方は本当に真剣に私たちと向き合わないといけなくなりますよ。その覚悟はありますか?」

「俺だって言わなかった事位ある。登紀子たちとそう変わらないと思うが」

「あら、貴方にとっては口うるさい婆が出来上がりますよ。さっきの言葉を撤回するなら今しかないですけど」

「言いたいことも言えずなぁなぁで終わらせる家族ごっこのような生活は終わりだ。多少ぶつかり合っても言いたいことを言って相手を分かってやるほうがずっといい。それに、お前は以前はずっとお喋りだったからな多少口うるさくなっても気にならないだろう」

 清史がそういって昔話を始め、真由美は今まで見たことが無かった母親の姿をいろいろ知ることとなり興味深く聞き、なるほどと納得したような様子を見せる。

「そっかぁ、帰ってきてからの母さんは全然違うもんね。今の母さんが本当の姿だってことか。竜也がね良いお母さんだけど変わっていて面白いって言っていたよ」

 真由美の口から竜也の名前が出て清史の眉がピクリと動いた。

 初めての名前だったが登紀子はそれほど驚くことなく「そうかしら」といっている。いったい誰だといえば真由美は彼氏だよと普通に返してきた。

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