第42話

「私は貴方の妻になりました。今、私は貴方が一生懸命に働いてくれているから生きていられる、そう思って頑張ってくれる夫を支えるために多少のことには目をつぶり、過ごしやすい家にするために努力した。でも貴方はそれをねぎらってくれることは一度も無かった。当然のように振る舞い、少しのありがとうも聞くことは無く、その態度はどんどん傲慢になっていった。今も貴方は自分は悪くない勝手なことをばかり言いやがるクソ女とでも思っているのでしょう? ほんの少しのありがとう、それだけで私は満足なのにそれすらも望んではいけないのですか?」

「お前は主婦だろう。家事をやるのが仕事みたいなものだ、当然のことにどうして俺がそこまで考えなきゃならない」

「家事が仕事であるならば、私にも給料が支払われてなきゃいけないでしょう。ボランティアにもほどがあります。どうして金銭を要求せず、一生懸命毎日毎日繰り返しの日々を、貴方から命令される日々を送っていけるのか。それは私の働きを必ず家族が理解し感謝してくれていると思っているからです。でもそうではないのなら私が主婦をやっている理由はありません。今すぐこの離婚届を書いて私に突き出してください。離婚届は言ってみれば主婦業の解雇通告ですから」

 ペン立てからボールペンを取り出して離婚届の上におき、印鑑と朱肉も用意した登紀子は悲しげな表情を浮かべるだけで、瞳に涙がたまることは無い。

 ただ疲れたようにため息をついてリビングを見渡した。

「貴方が私を選んでくれたこと、本当に嬉しかった。覚えています? プロポーズの言葉」

 離婚届を目の前にし、ボールペンを握りながらも自分の名前が書けずに居た清史は、登紀子の急な話に登紀子の視線の先を自分も追いながら「さぁな」と呟く。

「覚えていなくて当然なんですよ。だって貴方、特別なプロポーズの言葉は何も言ってくれなかったんですもの」

「……そんなことは無いだろう」

「そんな事ありますよ。ただ、付き合ってそんなに経っていないのに何十年も一緒に居るみたいだ、そういうのってなんか良いな。って言って暫く経ってから婚姻届の入った封筒を郵送してきてくれたでしょ。それがとても嬉しくて思わずその日のうちに貴方のところに行って本当に良いのか確かめて、貴方のご飯を一生作りますって私が貴方にプロポーズしたみたいになったのよ」

「あぁ、そうだった。すごい形相で走りこんできたな、お前」

「そうだったかしら?」

「あれはすごかった。でも、それがまた……」

 清史はそういいかけてボールペンを置き、家の中を嬉しそうに眺める登紀子を見つめた。

 化粧をしない登紀子の肌は年相応で、美魔女などといって年齢よりも若く見られることを追いかけることは決して無い。

 化粧品も高価なものはうちには一つもない。

 もっとちゃんと化粧をしたらどうだといえば、登紀子は決まって「おばさんにはおばさんなりの容姿っていうのがあるんですよ」とケラケラと笑うのだ。

 昔からお洒落よりも機能性といって動きやすいパンツルックばかりだった登紀子が結婚式の時にウェディングドレスを恥ずかしそうに着ながらも嬉しそうだった姿を思い出す。

 考えてみれば、登紀子が最近新しい服を買っているのを見たことが無い。

 自分や真由美の服は季節ごとに新調するのに登紀子は物持ちが良いからといって自分のを買うことは極力しない。

 真理と付き合うようになって登紀子のお洒落をしない姿が嫌だと思うようになってしまっていたが、それは自分勝手だったのではないかと清史はテーブルの上の離婚届を見つめた。

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