第41話

 登紀子と真理の間にそのようなやり取りがあったことなど知らない清史は、真理の宣言通り追い出されてしまい呆然と駅前にたたずむ。

 今更家には帰れない、かといってこのままここで突っ立っているわけにも行かない。

 大きな荷物とビニール袋をさげて、ぼんやり佇んでいてはホームレスと間違えられてしまうかもしれない。

 どうするか悩むのは荷物をどうにかしてからだと周りを見渡し、とりあえず駅のコインロッカーに詰め込んだ。

 しかし、これからどうしたものだろうと考え込み、バス停のベンチに座ってため息をついていた。

 ビジネスホテルという手もあるが、これから先どうするかを決めていないのに手元の金が減るのは得策ではないような気がする。

 かといって野宿など生まれてこの方やったことが無いのに出来るはずもない。恥をしのんで真理の家にもう一度と腰を浮かせたが、すぐに先ほどの真理の剣幕を思い出し、あれでは絶対に家に上げることすらしてくれないだろうと再び腰を下ろした。

 あぁでもない、こうでもないとやっているうちに、ほのかな空の赤さはなくなり、飲み屋の明かりだけが鮮やかに浮き上がる。

「仕方が無い、今日だけはどこか安いホテルで」

「あら、意外ね。そんなお金がまだあったの?」

 あきらめてホテルに行こうと立ち上がった清史の呟きに、後ろから知っている声が聞こえてきて清史は驚いて振り返った。

「貴方の事だからご飯代に消えているかと思っていたけど、ちゃんと節約して残していたのね。だったらこれからはお小遣いを減らしても良いかもしれないわね」

 くすくすと笑って言う登紀子にはじめは驚いて言葉が出てこなかった清史も、次第に苛立ちが生まれベンチを跨いで登紀子の目の前に立って怒鳴った。

「お前はどの面下げて!」

「怒鳴らないでください。夜遅いとはいえ、人は居るんですから。良い大人がこんなところで痴話げんかをしているなんて恥ずかしいでしょ。とにかく家に帰りましょう。貴方がどうしてもホテルに泊まるというならそれでも良いですけど」

 先ほどまでの微笑を仕舞い込み、静かに言う登紀子の迫力に押されて清史はそれ以上何かを言うことはなく、コインロッカーから自分の荷物を取り出して先に歩く登紀子について行く様に家に帰る。

 道中、何かを話すことはなく、登紀子はこんなに早く歩けただろうかと清史が首を傾げるほどに、はきはきと先を行く登紀子。

 その姿に相当怒っているのだろうと、普段怒ることのないものが怒った時の怖さを過去に一度味わっている清史の足取りは重かった。

 家に入ってみればあれだけ自分が散らかした部屋は綺麗に片付いている。

 真由美がするわけが無いというのは分かっていたので、登紀子がやったのだろうと綺麗な家の中を横目で見ながら登紀子に続いてリビングに入った。

 促されるまま食卓の自分の定位置に着いた清史に登紀子はお茶を入れる。

「真由美は?」

 静かな登紀子の沈黙に耐えかねた清史が何とか話題をと聞けば登紀子は、

「あら、貴方でも子供を心配することがあるんですね」

 と一言嫌味のように言った後「もう夜ですもの。自分の部屋に行ってますよ」と答え、湯飲みを目の前において、テーブルを挟んだ向かいに腰掛けた。

 熱くもなくぬるくも無いちょうどいい温度のお茶は、渋みが苦手な清史のために香りをたたせながらも苦味を抑えて入れてある。

 清史がお茶を一口飲んでほっと肩を少しおろしたのを見てとった登紀子は、テーブルの真ん中に一枚の紙を差し出した。

「……どういうつもりだ?」

 清史のほぐれたはずの緊張は再び体を硬くする。

 目の前に差し出されたそれは離婚届で、登紀子の欄はすでに埋められていた。

 眉間に皺を寄せた清史の頭の中は真理との不倫のことが回ってパニック状態だった。

 しかし、それを表に出すのは拒まれ苦々しい顔をしながら登紀子を見る。

「別れてくださいって言う意味じゃないですよ」

「じゃぁ、どういう意味だ」

「私は貴方と結婚してから自分なりに本音で話をしてきたつもりでした。でもここ数年、私は貴方と本気で向き合おうとはしなかった。それが駄目だったような気がするの。だから今日は全力本気で私が思っていることや感じていることを貴方に伝えようと思います。当然貴方にとっては面白くないことばかりだと思うけど最後まで聞いてください。それで最後まで聞いたうえで、もう私と別れたいと貴方が言うなら貴方の欄を埋めて役所に持っていってほしい。この離婚届は私が貴方に対してではなく、貴方が私に対して執行するものです」

 そういって登紀子は離婚届を清史のほうへ押し出し深呼吸をした後、今回勝手に出て行ったことをまず謝った。

 そして、真理との不倫を自分が黙認していたこと。黙認していた理由、登紀子のセックスというものへの感情。今自分が思っていることを全てゆっくりと落ち着いた口調で話し、最後に眉間に皺を刻んだまま自分を見つめている清史の瞳を見つめつつ聞く。

「私が出て行った理由。貴方はきちんと理解してくれているかしら?」

「……ふん、俺へのあてつけだろう」

「そう、やっぱりそんな風にしか思ってくれなかったのね。考えもしなかったみたいだし仕方ないわね。せっかく時間をかけて手紙を書いたのに。確かにあてつけと思われても仕方が無かったけど、私は貴方に主婦の大変さも分かってほしかったの。貴方言ったでしょ『主婦なんてどうせ暇だろう。いいご身分だよ』って」

「それが気に入らなかったから全部放り出して好き勝手したって言うのか。馬鹿馬鹿しい。実際主婦は暇だろう、俺がどんな思いをして働いているかも知らずによく言える。一日中家の中に居て、近所の人と喋って、テレビ見てごろごろしているだけだろうが。お前の体型を見ればどんなことをしているのかぐらい想像がつく。なのにお前は主人が少し言った他愛ない言葉に怒って家出したっていうのか」

「私はもともと太っていてダイエットを頑張っても痩せ難いというのは貴方が一番良く知っているじゃないですか。結婚したときと比べれば確かに少し太りましたけど、見た目はそんなに変わってないはずですよ。洋服のサイズは変わってませんからね。それに、こんな体型の私を愛してくれて、妻にしてくれたのは貴方じゃないですか。貴方にとって他愛ない言葉でも私にとっては酷い言葉となるんです。主婦といってもいろんな主婦が居ます。サラリーマンといっても色々あるように。でも私がその中でどんな『主婦』であるのか、それは家族が良く知っていることだと私は思ってきました。誰が見て無くても家族が見てくれている。そう思っていましたけど貴方は違ったみたいですね。何時から貴方は私を対等ではなく下等として扱うようになったんでしょうね。私は貴方の召使じゃないんですよ。貴方は気付いていないのかもしれませんけど、貴方から出る言葉といえば『飯は』『服は』『あれはどこだ、これはどうなっている』命令口調で自分が王様にでもなったみたいに偉そうな態度ばかり」

「さっきは言葉で、今度は態度か」

 ため息混じりに嫌そうに言う清史の態度に登紀子は悲しそうに眉尻を下げた。

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