第40話

 竜也と真由美の説教を終え、家を出た登紀子は久しぶりの自分の携帯電話を手に清史の会社に電話をかけ、旧姓を使って日向真理を呼び出した。

 旧姓であったが、登紀子という名前がヒントになったのか、受話器の向こうではそれがどんな用件で誰がかけてきたのかすぐに読み取った様子。

 真理の提案で終業してから、清史が自分の身を守るために真理に住むように言った、借家の近くの喫茶店で待ち合わせることになった。

 家のトイレや登紀子が出かけたと思っている隙に清史がかける電話での会話や、社員旅行や忘年会に撮られた写真から登紀子は、真理という女性はもう少しおっとりとして物事をあまりよく分かっていないような流行のおバカ系の女性だと思っていた。

 しかし、今の電話の対応でかなり頭の回転が速い頭の良い女性だということを感じ取る。

「あら、意外だわ。会うのが楽しみなっちゃった」

 登紀子は小さく微笑み、待ち合わせ場所に向かった。

 住宅街にあって落ち着いたレンガの外観の喫茶店はマスターの趣味のよさが出ている。

 平日水曜日の夕刻ということもあり客はあまり居ない。

 初めは普通に窓際の席についていた登紀子だったが、なかなか真理が現れないので暇をもてあましてカウンター席に移り、マスターと話し始める。

 初老のマスターの話は楽しく、時間が経つのも忘れてマスターの趣味の話しに聞き入っている最中に真理はやってきた。

 不機嫌といわんばかりの態度をそのまま出して、マスターと笑って話している登紀子をじっとりとした視線で見つめる。

 マスターですらその雰囲気に静かに話を終えてカウンターの奥へと引っ込み、登紀子はため息混じりにカウンターから窓際の席に移った。

「やっぱり、貴女でしたか」

「あら、私の顔を知っているの?」

「何度か社の催し物でみたことがあったので。それで、あからさまに呼びつけて、泥棒猫とでもののしるつもりですか?」

「まぁ、その話は後にして、ここのコーヒーなかなかよ。貴女が来るまでマスターに色々ためさせてもらったんだけど、私はコロンビアが……」

「正妻の余裕でも見せようって魂胆ですか? 安心してください、私はもう清史さんと別れようと思っていますから」

 つっけんどんにただただ機嫌悪く言う真理に、登紀子は少しため息をついてバニラフレーバーのコーヒーを二つ頼み、やってきたコーヒーを真理に勧めながら自分も一口飲んで大きく息を吐き出した。

「私ね、貴女と主人が付き合っているということはかなり前から知っていたわ。嫌だとは思ったけど、それに対してどうにかしようとか、貴女を罵ろうとかそれは思わなかった。それは正妻の余裕というものじゃなくって、そうね、ある意味感謝もしていたからかしら」

「感謝? 不倫されて夫をとられておきながら感謝ですって? 強がりもいい加減にしたらいかがです」

「強がりってとるのは貴女の勝手だけど、感謝しているって言うのは本当よ。私ね、清史とのセックスが出来ないの。でもあの人はあの年で性欲がすごいでしょ? 受け止められないそれを受け止めてくれているのだから感謝して当然なのよ」

 怪訝な顔をしていた真理だったが、登紀子が自身を嘲る様に微笑むのを見て少し表情を変える。

 頭の良い真理は登紀子の様子や会話で少しだけ、本当に自分は罵られるために呼ばれたのではないのかもしれないと思いはじめたからだ。

「貴女と違って私はこんな容姿で完全なおばさん。昔からお洒落には興味が無いし結婚なんて出来ないってあきらめていたけれど、私は私のままで良いって言ってくれた人が居て、その言葉を鵜呑みにして私は私のままで立派なおばさんになっちゃったのよね。そしたら、案の定セックスも体で感じる感覚はそれで感じて、目で見る女は別のものっていう図式が出来上がってしまって。そうなると女としてどうなの? って自分で考えるようになっちゃってね。だってそうでしょう? それじゃその辺の大人のおもちゃと変わりないじゃない。そのうちセックスなんてしたくないって思いだした。夫の男女のエロさを感じる言動や体を触れられるのも嫌になった。でもね、だからといって愛していないわけじゃないのよ。ただ私はそういう行為が無くても十分幸せを感じられたし、この人を好きだと思えるから日々の家事もこなしてこられた。ただ、男は違うのよね。セックスで愛を感じようとするし、それが愛している証拠だなんて思ったりする。私にはあの人の性欲という愛を受け止めることは出来なかったのよ」

 小さく唇の端を持ち上げて微笑みながら話す登紀子に、真理は大きく深呼吸をするように息をして、先ほどまでの不機嫌さを払い納得するように頷く。

「セックスレスですか。……そうですね、それはあの人には辛いかもしれない」

「あら、分かる?」

「えぇ、まぁ。失礼ですけど年齢に似合わない精力の持ち主だと思いますよ。私、今は結構散々ですから」

 真理の口から散々という言葉を聞いて登紀子は噴出し大きな声で笑う。

 「笑い事じゃないんですよ」と少し強い口調で言う真理に、笑うのを何とか押し込めて頭を下げてごめんなさいと謝った。

「貴女に対して笑ったんじゃないのよ。これはあの馬鹿亭主に対して。本当にあの人は馬鹿ね。そんなことになるんじゃないかってちょっとは思ったけど、娘が居るのにそこまで馬鹿じゃないって信じていたかったのにねぇ。貴女には本当に迷惑をかけてしまってごめんなさい。実はこの数日間、私家出していてね。一昨日娘に電話して状況を知って急いで帰ってきたの。それで今日貴女を呼び出したのは謝るため。私が勝手したために貴女に苦労をさせてしまって申し訳ありません」

「……まるで何があったかわかっているみたいですね」

「まぁ、一緒に居るのだけは長いから大体は想像がつくわ。脱いだら脱ぎっ放し、出したら出しっ放し、自分では何一つ動かずあれやれ、これやれ、ちょっと文句を言えば女なんだから、暇なんだから。家では口癖だし、あの人、家の中では外で居るときと違ってだらしなくて偉そうなのよ。それに人前では見栄っ張りで小心者。そうね、少し会ってセックスしたら必ずあの人は家に帰ってきていたから貴女は知らなかった一面でしょうね」

 どうしようもない人なのよあの人は。と呟く登紀子の言葉に真理はコーヒーを飲み、大きな息を吐いて椅子の背もたれにもたれかかる。

「さすが奥さんね、まるで見ていたみたいに当てられちゃった。その通りそのまんま。文句ばかりで料理もいつもの味じゃないとか言うのよ。自分が暇になれば擦り寄ってきてセックス。こっちには色々やることがあるってのに。もうね、いい加減嫌になって、私いったいこの人のどこが好きだったのかしら? って思うようにもなっちゃって。そう思い始めると急速に今まで見えなかったところも見えてきて。セックスだって何処にそれだけの性欲をためていたんですかってぐらい四六時中」

「あの人ね、ストレスが溜まった時とか、何か後ろめたいことがあるときなんかそうなるのよ。今回は私に不倫がばれているかもって思って不安で仕方なかったんでしょ」

 呆れたようにため息をついて言う登紀子に真理はそこまで分かっていて、セックスレスでどうして別れないのかと聞いた。

「だらしなくて、性欲が馬鹿みたいにあって、命令して偉そうで。確かにほかから見ればたいした男に見えないだろうけど、私はそんなあの人が好きでもあるの。最近はあの人は私を妻としては見てくれなくて真由美の母親ってだけで見ているけど、妻としてみてくれていたときは誰よりも先に私の体調の異変に気付いてくれたり、見えないところで気遣いがあったり、本当に優しい人なのよ。それを知っているから私はあの人をずっと愛していられる。愛してくれなくても愛していられると感じられる間は私から別れを切り出すことは無いわ」

「はぁ、すごいですね。私には到底無理です」

「そうね、貴女みたいにバリバリ働くことができる頭のいい女性には向いてないのよあの人は。だからね、謝りに来たついでにせっかくの若い時期にあんな人はやめて、もっと良い人を捕まえたほうが良いって言おうと思っていたの。夫を取り戻す為とかそんなのは一切関係なく、貴女のために。たけど必要なかったみたいね」

 真理は笑顔で話す登紀子を素直にすごいと思い、なんて素敵な人なんだろうと思った。

 カップに残ったコーヒーを全て飲み干してから、良し! と気合を入れるように言って席を立ち、登紀子に向かって頭を下げた。

「今まですみませんでした。こんな事言ったら失礼かも知れないけど奥さんが家出してくれて良かったです。いい勉強になりました。それから私、登紀子さんが好きになっちゃった。また今度お買い物に行きませんか」

「あら、今度は私? でも買い物は良いわね、貴女みたいに綺麗な子と一緒だとちょっと恥ずかしいけれど」

「そうですか? 私は素敵な女性だと思っているから全然気になりませんけど。あ、じゃぁ、私が登紀子さんを磨いてあげます」

「私を磨いてどうにかなるかしら。でも面白そうね。そうだわ、せっかくだもの今携帯のアドレス交換しましょうか」

 登紀子の提案に真理はそれは良いですねと鞄から携帯電話を取り出し、赤外線通信で互いの電話番号とメールアドレスを交換した。真理は携帯電話を鞄にしまうとにっこり微笑んで、

「それじゃ、申し訳ないけど明日には清史さんを叩き出しますので拾ってあげてください」

 と登紀子に言い、伝票を手にコーヒー代を支払って笑顔で手を振って別れた。

「修羅場は終わりましたか?」

 くすくすと笑いながらやってきたマスターに「あれが修羅場だったら世の中平和ね」と登紀子は微笑み返した。


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