第30話
泣きじゃくる声を聞いた登紀子は受話器を置くと、あわただしく自分の荷物をまとめ、旅館のフロントに電話をかける。
都合よくほかの従業員ではなく皐月が出て登紀子は今から帰りたい旨を伝えた。
「急でごめんなさい。どうしても帰らなきゃならなくなって。後九日間の予定だったけど今日までで精算してもらって良いかしら?」
「ずいぶん急ね、何かあったの?」
「まぁね。やっぱり子供はまだ子供だったって事かしらね」
「あぁ、なるほど」
眉尻を下げて言う登紀子の声に、皐月はちらりと事務所で伝票整理をしている自分の娘を見つめて納得したように言う。
「色々話したいことがあったから残念だけど仕方ないわね。精算っていっても貴女からは初日にお金をもらっているし、そこからキャンセル料を引いて渡すだけだけど。今から帰るのに精算してお金を渡してってなると終電に間に合わないような気がするわね。そうだ! 後の九日間はまた今度家族で来るって言うのはどう? リザーブって形で九日間分置いといてまた予約してもらうの。でそのときの料金は発生しないってことでどうかしら」
「とってもいい提案だけど旅館的にそれでいいの? それに家族で、ねぇ。来られるかしら」
「こっちはいいのよ、損はしないし。そうねぇ、来られるかどうか分からないっていうんだったら後で電話を頂戴。後でどうするかの電話をもらって返金のときは振り込むか現金書留で送るかするわ。なんにしても今から帰るって言うなら急がないと。表に車を回しておくから早くね」
皐月はそういって電話を切り、急いで終電の時間を確かめて送迎係の吉野を呼んで言う。
「この時間最寄り駅からじゃ間に合わないから高速使って新幹線駅に直接行って上げて頂戴」
「最終まで一時間ですね」
「えぇ、大丈夫かしら?」
「一時間もあれば十分大丈夫です。まかせてください」
「……くれぐれも捕まらないようにね」
「あははっ、昔じゃあるまいし、大丈夫っていったら大丈夫ですよ」
そういって二人が話していれば、とりあえずといわんばかりに身支度をした登紀子がやってきた。
皐月はこれに乗れば今日中に家に着くことができると電車の時間などを書いた紙を渡し、必ず家に着いて落ち着いたら電話をするようにいって送り出す。
吉野が運転する、ジェットコースターにでも乗っているような車に悲鳴を上げながらも、何とか新幹線の駅まで着いて電車に乗り込み、最寄り駅に着いたのはもうすぐ日付が変わろうかという時間だった。荷物を抱えかえってきた我が家には電気一つ点いておらず、時間が時間だからと静かに鍵を開けて中に入る。
きっと真由美はもう寝てしまったのだろう、明日話をすればいいと思い、リビングの電気をつけるとそこには真由美が頭から布団をかぶってソファーにうずくまっていた。
「真由美、起きていたの? 真っ暗だからもう寝てしまったと思っていたわ。それに自分の部屋じゃなくってどうしてこんなところで」
思わず言った登紀子の声にゆっくり真由美の顔は動いて、瞳に登紀子を映し出したとたん瞳からぼろぼろと大粒の涙をこぼし始める。
まるでゴミ屋敷じゃないかというほどに散らかっている床の隙間を歩いて真由美に近寄った登紀子は、真由美を抱きしめながら大丈夫と声をかけた。
小学校高学年頃から少し大人びた風に背伸びをし、中学に入ってからは冷め切った風で感情を表に出さなくなった真由美が、今は大声で泣き「母さんの馬鹿」とわめいている。不謹慎ではあったが登紀子にはそれがなんだか少し懐かしくて嬉しかった。
暫くの間、登紀子に抱かれたまま大声で泣き続けた真由美は、登紀子がいなかった間の出来事を泣きながら叫んでいたが、暫く泣き喚いた後肩を震わせしゃくりあげながら「ごめんなさい」と小さく登紀子に向かって謝った。
「謝るのはお母さんの方よ。急に出て行ってごめんなさいね。まさかあの人がここまで駄目だとは思ってなかったから」
乾いた笑いを返してくる登紀子に真由美は暫く黙っていたが、やっぱり聞いておかないとと思って顔を上げ登紀子の目を見ながら真剣な表情で聞く。
「ねぇ、母さんが出て行ったのは父さんが原因なの? あたしはてっきりあたしが駄目だからだと思った」
「そうね、直接の原因はお父さんかな。でもね、なんていうのかな、お母さんはなんだか自分がいったいどうしてここでこうしているのか、いったい自分は何のために生きているんだろうって考えちゃってね」
登紀子が小さく笑っていった一言に真由美は大きく息を吸い込んで吐き出し、しゃくりあげる自分の呼吸を整えて、登紀子から少し離れて向き合うように座ると登紀子の顔を見ながら真剣な表情で話し始める。
「母さんがいなくなって、あたし痛いほど思い知った。どれだけ母さんに甘えていたのかを。食事も洗濯も掃除も母さんがやるのが当たり前って、どこかで思っていたんだと思う。それに、家にいて暇な時間が沢山あって主婦って楽だなって思っていた。友達のお母さんたちは働いていて忙しくしているけど母さんはそんなこと無くて暇人だなんて」
「そうね、確かに働いているお母さん達と比べると母さんはそれほど大変じゃないように見えるかもしれない。けど、その分家事に手を抜くことはしてないし、主婦という仕事を精一杯やんなきゃ駄目だって頑張っているつもりなのよ。第一、働いている人とそうでない人を比べるのは少し違うんじゃないかしらね。比べるというのは同じ条件でどれだけと比べてこそ意味を成すだろうけど、そうじゃない限りどんな事柄でも比べてどうだ、とはいえないような気がお母さんはするわ。良くいろんな人が主婦は暇だ暇だって言うけど、主婦には主婦でそれなりの理由があるわけだし、働いている人と比べられちゃ主婦は何もいえなくなっちゃうでしょ? 駄目な主婦と比べられたらいくらでも言いようはあるけど。母親が働いている家はうちのようには行かないはずだし、決め付けるんじゃなくってどこでどう頑張っているか、それをきちんと認めてから文句を言ってほしいって思うわね」
「うん、ごめんなさい。今回母さんがいなくなって良く分かった」
いつもなら、そんなこと言ったって暇は暇でしょと言い返してきそうな真由美がため息をつきながらそういうので、登紀子は相当堪えているようだとそれ以上言うのは止めて大きく息を吸い込んだ。
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