第27話

 どのくらいの時間がたったのか。

 泣きすぎて顔は突っ張り目元は腫れて、頭の中心はぼんやりとしながらくらくらしてくる。

 大きく息を吸って吐き出し床に突っ伏している水月の目の前に化粧品のボトルが一つ置かれた。

「涙で化粧は落ちているところもあるだろうけどそうじゃないところもあるだろうし。まずはこれで洗顔していらっしゃい。やり方はわかる? 普通の石鹸じゃ落ちないけどその洗顔料でやれば落ちるから。勝手が分からなかったら呼んでね」

 登紀子に言われて涙や鼻水でぐしゃぐしゃになっているだろう顔をタオルで隠すようにして洗面所に向かい、言われたとおりに顔を洗う。

 化粧は落ちたものの顔の張りと腫れはあまり引かず、誰がどう見ても泣きっ面な顔をしたまま洗面所を後にした。

「あら、隠さなくてもいいのに。あれだけ泣けばどんな顔になっているかなんて想像つくし、男の子に見られるわけじゃないんだからいいでしょ」

 ばつが悪そうにしぶしぶ顔を隠していたタオルを取って、登紀子から離れて座った水月は何を喋ったらいいのか分からず黙って畳のヘリを見つめる。

 そんな水月の姿を見て微笑みながら登紀子は話しかけた。

「とっても面白い話をしてあげましょうか?」

「面白い話?」

「貴女が生まれる前の話だけど、この旅館には貴女がやってのけたことと同じことをした人がいてね。今の貴女と変わらない年位の時に、貴女は高校の先生だったけど、その人は宿に来ていたお客さんと逃げたのよ。そして見事に恋破れ仏頂面して帰ってきたんですって。でもね、今はそんな過去や亭主に逃げられるなんて、女難ならぬ男難とも思える過去をものともせずに美人女将としてこの宿を切り盛りしているの」

 下を向いていた顔を上げ、瞳を丸くした水月は「それって」と驚きで声にならないといった風に登紀子を見つめ、登紀子は歯を見せながら悪戯な笑顔で「ばらしちゃった」と言う。

「娘には知られたくなかったのか、言えなかっただけなのかは知らないけど本当にすごいわよね、親子そろって同じことしちゃうんだから。こういうのも遺伝ってするのかしら?」

「信じられない。だってお母さんは旅館の仕事が生きがいで、それを捨てるなんて」

「あのね、誰もが皆始めから『おばさん』だったわけじゃないのよ。当然皐月さんだってはじめから女将だったわけじゃない。皐月さんも私も貴女たちみたいに恋に恋するような若い時代もあったし、なんでも極端に無茶に走っていく情熱ってものも持っていた。子供の頃もあれば乙女の時代もちゃんと。おばさんって呼ばれている私たちにもあった。だからね、同じように情熱的に走っちゃった皐月さんは誰よりも貴女を理解できるし、貴女だって理解できるはずなの。お母さんとはそんな話をしないの?」

「あまりしません。お母さんは今まであまり私のことに対して何も言わなかったし、私も聞いたり話したりすることも無くって」

「そう、どこも同じね。うちも同じだわ。私も話しかけようとするんだけど自分の子供なだけに、ちょっとした態度で機嫌とかわかっちゃうもんだから遠慮したりして。親子って難しいのよね。親になってはじめて分かるけど、やっぱり自分の失敗談というか、しくじったって自分で思っていることは子供にはあんまり喋りたく無いものだし。それでさらに悪いのが、世間的とか常識的とかそういうことに頭でっかちになって、自分の子供時代のことを棚に上げて子供を叱っちゃうのよね。でもね、貴女がしたことを皐月さんが本当に怒って情けない娘だって見放しているなら、たぶんこうやって女将の修行はさせなかったと思うわよ。私が思うに、どう声をかけてどう接していいか分からないから、自分がそうやって帰ってきたときに先代の女将がやったことをそのままやっているんだと思うわ。不器用よねぇ」

 何でも完璧にこなして前向きでパワフルで明るい自分の母親の意外な一面を知り、そして日々、旅館のことで叱られてはいるけれどこうしてもらっていることが自分にとっても救いだったのかもしれないと水月は考え込む。

「自分と違って感情を面に出さない、とにかく真面目で静か。それでいて溜め込んだものが爆発すれば何をしでかすかわからないところは自分にそっくり」

「え?」

「皐月さんがそういっていたわよ、貴女のこと。全部自分と同じなら何でも分かるんだけど、そんなことあるわけないし、それに付け加えて親子でしょ。いっそ一見さんの他人なら無責任なことも平気でいえるのに。貴女もそうでしょ?」

 登紀子に言われ、水月は素直に頷く。

 言いたいことも聞いてほしいことも沢山あるけれど何故か親にはいえなくて、親とはどこまで話したらいいのかも分からず結局何も言わないで、自分のことは何一つ分かってくれないと思ってしまっている。

「面と向かって話せないなら手紙にしてみてもいいと思うわ。メールじゃなくってね。機械的な文字じゃなくって、人間の文字って同じ言葉でも受け取り方がちがってくる不思議なものだから。たまには本音でぶつからないと駄目よね。私も貴女たち親子を見てちょっと学習したわ」

「あ、言っていた娘さんのこと」

「そう。どこまで踏み込んでいいのか分からなくて、言えばもっと傷ついて状況が悪くなるんじゃないかってそんなことを考え出すと話せなくなってね」

 ため息をつく登紀子に水月は少し考えた後、「でも……」と口を開いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る