第18話

 結局、登紀子は帰ってこなかった。

 登紀子のことだ。

 あんな手紙を残していくくらいだから帰ってはこないだろうと覚悟はしていたが本当に帰ってこないとは呆れてものが言えない。

 良い歳をしたおばさんが一体何をしているのか。

 いったい誰のおかげで生活できていると思っているのか。

 真由美も真由美だ。

 土曜日で学校が休みとはいえ朝起きてくることすらせず、父親のために朝食を作ってやろうとも思わないとは。

 いったい家の女共は何を考えているのか。

 登紀子が帰ってこようがこまいが俺は仕事に行かねばならない。

 いつもなら登紀子が起こしにくるが帰ってくるかも分からないものを頼ってはいられないと目覚ましをかけておいて良かった。

 昨日の晩は何とかカップ麺を見つけ出し食べ、結局朝もカップ麺を食べるはめに。新聞もない、朝食も用意されていない。なんと最悪な朝だ。

 食事が終われば再び問題が発生する。弁当が無いのだ。

 生活費として登紀子が置いていったのはたった四万円。月々の小遣いもあるにはあるが使い道が決まっていることもあり、出来るだけ自分のお金は使いたくは無い。

 どうするかと考えながら背広に着替え始め、ワードロープの中を見て悩みが増えた。

 アイロンがかかって綺麗にしまわれているシャツはたった三枚だ。今日一枚着ていけば火曜日までの分しかない。背広も同じでハンカチなどにいたってはどこにおいてあるのかすらわからない。なんてことだ、こんな心配までしなければならないのか。

 それもこれも登紀子が勝手に家を出たりするからだ。

 真由美が女のくせに母親の穴をうめることすらできないからだ。

 登紀子はいったい真由美にどういう教育をしていたんだ。

 文句を頭の中にいくつも浮かべつつ時計を見て急いで着替え、ともかく今日の昼は自分の小遣いから出すことにして会社に向かう。

 本来であれば土曜日は休みの日、今日は休日出勤。ここまで働いているのに登紀子は家を出、真由美は家のために何もしない。全く、あの連中は最低だ。

 会社について自分のデスクに座ったがその部屋には当然自分以外の人間は居ない。

 そうして仕事を始めて暫くすると「課長、やっぱり出勤されていたんですね」と入り口から声がしてパソコンの画面から声のしたほうへ視線を向ける。ふわりとやわらかな印象を与えるミニスカートのワンピースを来た真理がかわいらしい笑顔を浮かべていた。

「どうした? 今日は出勤じゃないだろ」

「だって昨日、明日があるから今日は早めにって帰っちゃったから。どうしても会いたくて」

 真理は一年半ほど前に入ってきた派遣の事務社員だ。

 どこか抜けているところがあるが、仕事はきちんとこなし明るい笑顔でスタイルもよく皆に好かれていた。

 既婚者の俺も登紀子とはまったく違う曲線を描くその体に視線を思わず送ってしまい、数ヵ月後には男と女の関係になっていた。

 お互いが互いの状況を理解した上でそういう関係になった。

 とはいえ今は何かとすぐに問題にされて会社を追われてしまう。

 ゆえに当然のことながら二人の関係は会社では秘密で絶対にばれてはいけないことだった。しかし、その絶対にばれてはいけない秘密というのが二人を興奮させてもいた。

 誘ってきたのは真理のほう。

「ほかの男の人は嫌だけど平松さんなら私……」

 そんな言葉を可愛らしい唇から吐き出して上目使いに俺を見る真理。

 はじめこそそれはいけないことだと言っていた俺だったが、摺り寄せてくる体の柔らかさ、潤んだ瞳と登紀子からは絶対にしないだろう甘く女らしい香りに逆らうことは出来なくなった。

 滑らかな肌に可愛らしい声、それが自分の手の中でなまめかしく動いている。

 なんという幸福感だろうかと俺はのめりこみ戻れなくなった。

 それと同時に家に帰れば真理とは違う太い体をした登紀子が居て、今までそこまで思っていなかったがなんて醜悪なのだと登紀子を見るたびに眉をひそめるようになる。

 デスクに座る俺の横にやってきた真理のスカートから伸びる足を見つめ、そっと手で触れながら寂しかったのかと聞けば、真理は体を捩じらせて小さく頷いた。

「会社では駄目だといつも言っているだろ」

「だったら、そんなじらすみたいなことしないでください。我慢できなくなっちゃう」

 頬を少し赤らめて言う真理の表情がたまらない。

 言葉では制止をしながら手を動かし、真理の耐える顔が見るのが好きだった。こんなこと登紀子では味わえない。

 今日のように誰も居ないこの空間、オフィスという絶対にしてはならない場所で真理を乱れさせたらと考えただけで股間が熱くなるが、それが登紀子になったとたん熱はあっという間にさめる。

 二人にはそれほどの違いがあった。

 小さく桃色の唇から息を漏れ出させて少し身震いする真理の姿を眺めていれば、真理はデスクの周りに視線をめぐらし首を傾げる。

「どうかしたのか?」

「今日はお弁当じゃないんですね」

「あぁ。……今登紀子は旅行に行っていて娘は親の弁当を作るとかそういうことはしないから」

「旅行ですか? あ、それなら今日はうちに泊まれるんじゃ……、って娘さんが居るなら無理ですよね」

 家に帰ってもおそらく真由美は食事を作ってないだろうし、そうすればまたインスタントラーメンだ。俺は少し考えた後、

「いや、そうだな、真理の所に泊まるのなんて今まで無かったからな。真理の手料理を食べて時間を気にせず真理を食べるのも良い」

 といい、真理は嬉しそうに微笑んだ。

「いっそのこと、奥さんが居ない間、私が清史さんの家に行っちゃったらいいんじゃない?」

 ふざけて微笑みながら言う真理に馬鹿なことをと呆れたように笑った俺だったが、真理の言葉を聞いてふと登紀子の置手紙のことを思い出した。

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