第13話

 バケツを返したような雨が降り注ぎ、外湯めぐりをしてみようと思っていたのを取りやめ、旅館の中を散策していた登紀子。

 土産物屋の商品を見ている時に、後ろから皐月が声をかけてきた。

 今夜遅くなるけれど仕事が終わったら部屋に行ってもいいかと聞いてきたので、登紀子はもちろんと答え部屋に戻る。

 いつもの今頃は夕食を作り洗濯を取り込んで庭に水をやって居るころ。

 そうして暫くすれば真由美が帰宅し真由美の食事を用意する。

 父親と一緒に食事するのは嫌だからと高校生になってから帰ったらすぐに食事をするようになった真由美。

 ここで一緒に食事をしてしまえばいいが、それだと清史が文句を言う。

 なので、せめてと一緒に食事はしないが、登紀子は食卓の椅子に座っていた。

 どんな話を振っても「うん」「あぁ」「そう」などという、たった二つの文字での返事しか返ってこない。

 しかし、会話をしないよりはましだろうと話をし、食事が終われば真由美は部屋に行く。

 登紀子が真由美の食器の後片付けをしていると、清史が帰ってくるので自転車のブレーキの音がしたら玄関の鍵を開けに行って、清史を出迎え二人で食事をするのだ。

 そういえば、最近は「いただきます」も「ごちそうさま」も二人から聞いたことがなかったと思い出す。

 何かしらと動き回っている時間帯に特にこれといってやることも無く、意外にもこれだけ時間があると、どうしていいのかわからない自分が居ることに驚きながら庭に降りる。

 部屋に面した広い窓の近くは多少の草は生えているものの、手入れを怠っている様子は無いのだが、やはり従業員の数が少ないからだろうか、それともこのようにして庭に下りてまで暇をもてあましている人は少ないからなのか、離れの裏手に回れば雑草が嬉しげに背を伸ばしていた。

「あらあら、こっちは盛大に伸びているわね」

 周りをちらりと確認した登紀子は、むずむずと沸いてくる主婦魂に少しだけ火をつける。

「あの雨のせいでやることが無いんですもの。少しだけ、少しだけね」

 そういって始めた草取りだったが、いつの間にか当たりは薄暗くなってサンダルも手も泥だらけになっていた。

 夢中だった草取りを中断するきっかけになったのは、部屋に夕食を運んできた仲居さんの自分を呼ぶ声。

 我に返って離れに向かえば、登紀子の姿を見つけた仲居が驚いて声を上げる。

「お、お客様! いったい何を」

「あら、つい夢中になっちゃって。あらあら、私ったら泥だらけだわ」

 大きな声で笑いながら言う登紀子に仲居は、困ったようなどうしたものかという風な表情を見せた後、部屋の中に入って浴衣の入ったかごを手に露天風呂に入るように薦め、登紀子もそうねとそれに従って露天風呂に入る。

 目の前の大きな竹林が風情を出している露天風呂は大人三人余裕では入れるだろうという広さがあり、自宅の狭いユニットバスを思い出しながら、これまた広い洗い場で体を綺麗にして湯船へむかい、大きく手足を広げて顎の下まで湯に浸かった。

 暫く浸かって部屋に戻ると先ほどの仲居が正座をして頭を下げ出迎える。

 部屋の座卓の上には今日の夕食が並べられており、それは家庭的な芋の煮っころがし等が数点の小さな小鉢に入っているようなもので、高級旅館の日常を忘れさせる豪勢な食事とは違い、どこかほっとさせてくれる風景だった。

 座卓のある部屋の続き、ふすまの向こう側にはすでに布団も敷いてあり、至れり尽くせりの状態に登紀子は少しうきうきとした気分で足取り軽く仲居の横を通って席に着く。

「ごめんなさいね、驚かせちゃって」

「いえ、私どもの手入れが行き届いておりませんで、ご不快な思いをさせまして」

「いやぁね、違うのよ。なんだか暇でね、ちょうど良い暇つぶしがあってこっちが感謝したいくらいよ。不快になんか思ったら自分でやったりする前に文句を言うでしょ? そうじゃないから安心して頂戴」

「それでもやはり」

「いいのよ。だってこの宿の離れはお客様の自由な旅と自由な時間を保証してくれるんでしょ? だから私は自由に草抜きをやっただけ。それよりも美味しそうな夕食ね」

 申し訳なさそうに眉を下げて言う仲居に登紀子は話題をすらりと変えて、仲居も今日の夕食は……と説明を始める。

 一通りの説明を終えると「それでは」と深々とお辞儀をして部屋を後にした。

 仲居がいなくなってからほっと肩の力を抜いた登紀子は小さな息を漏らす。

「失敗失敗、ちょっとのつもりがつい夢中になっちゃったわ。見つからないようにするつもりだったのに」

 登紀子は自分の行ったことに対して、成果がすぐに見えることが大好きで、草取りも草を抜けばすぐにその場が綺麗になるという成果が見えるため、つい夢中になってしまったのだ。

 気をつけないと駄目ねと自分に言い聞かせ目の前の美味しそうな料理を頬張り、何年ぶりかの、自分が作ったのではない自分のために作られた夕食を綺麗にあっという間に平らげた。

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